今から30年ほど前、埼玉県の山間部にひっそりと佇む集落があった。そこは、かつて炭焼きや林業で栄えた小さな村だったが、時代と共に若者は都会へ流れ、残されたのは老人たちと、朽ちかけた家屋だけだった。その集落の外れに、誰も近づかない廃屋があった。地元では「鏡の家」と呼ばれ、子供たちの間で語り継がれる怖い噂の舞台だった。
その家に足を踏み入れた者は、必ず不思議な体験をするという。噂の中心は、家の奥に置かれた古い姿見の鏡だった。鏡に映る自分の姿が、どこかおかしい。目が少しずれて見えたり、笑っていないのに口角が上がっていたり。ひどい場合には、鏡の中にいる「自分」が、こちらを見ながら動くのだという。村の老人たちは、子供たちにこう警告していた。「あの鏡は、死者の魂を映す。見つめすぎると、連れていかれるよ」
主人公の少年は、当時16歳の高校生だった。都会からこの集落に引っ越してきたばかりで、村の噂には半信半疑だった。彼は好奇心旺盛で、退屈な田舎暮らしに刺激を求めていた。ある夏の夕暮れ、友達二人と一緒に「鏡の家」に忍び込む計画を立てた。友達の一人は地元の少年で、噂を信じている様子だったが、怖がりながらも好奇心に負けてついてきた。もう一人は、主人公と同じく都会育ちの転校生で、怖い話など笑いものだと豪語していた。
三人は懐中電灯を手に、雑草に覆われた小道を進んだ。廃屋は、集落から少し離れた丘の麓にあった。木造の二階建てで、屋根は苔むし、窓ガラスはほとんど割れていた。夕陽が沈む頃、辺りは不気味な静けさに包まれていた。虫の声すら聞こえない。主人公は胸の高鳴りを感じながら、軋む玄関の扉を押し開けた。
家の中は、時間が止まったかのようだった。埃まみれの畳、倒れた箪笥、壁に貼られた古いカレンダー。カレンダーは、20年以上前の日付で止まっていた。地元の少年が小声で言った。「ここ、昔、家族が住んでたんだ。でも、ある日突然いなくなったって……」 都会育ちの少年は鼻で笑い、「そんなの、ただの作り話だろ」と吐き捨てた。だが、主人公はどこか落ち着かない気分だった。空気が重く、鼻をつくカビ臭の中に、ほのかに甘い匂いが混じっている気がした。
鏡は二階の奥の部屋にあるという。三人は慎重に階段を上った。木の階段は、足を置くたびに不気味な音を立てた。二階の廊下は暗く、懐中電灯の光が頼りだった。廊下の突き当たりに、半開きの引き戸が見えた。地元の少年が立ち止まり、震える声で言った。「そこ……鏡の部屋だよ。やっぱりやめようよ」 だが、都会育ちの少年が先に進み、「ビビってんのかよ」と笑いながら戸を開けた。
部屋は意外に広く、窓から差し込む薄い月光が、埃の舞う空気を照らしていた。部屋の中央に、大きな姿見の鏡が立っていた。枠は黒く塗られた木製で、ところどころ塗装が剥げ、鏡の表面には細かな傷が無数に走っていた。主人公は、鏡に近づくにつれ、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。まるで、誰かに見られているような感覚だった。
都会育ちの少年が、鏡の前に立ってふざけ始めた。「ほら、なんともねえじゃん! お化けなんて出ねえよ!」 彼は鏡に向かって変な顔をしてみたり、舌を出したりした。だが、主人公は違和感を覚えた。鏡の中の少年の動きが、ほんの一瞬、遅れているように見えたのだ。地元の少年もそれに気づいたのか、顔を真っ青にして後ずさった。「や、やめろよ……何かおかしいって……」
その時、鏡の中の少年が、突然笑った。本物の少年は笑っていないのに、鏡の中の彼は、口を大きく開けて、歯を見せて笑っていた。主人公の背筋に冷たいものが走った。都会育ちの少年も異変に気づき、慌てて鏡から離れた。「なんだよ、これ……!」 彼の声は震えていた。
すると、鏡の表面が揺れた。まるで水面のように、波紋が広がった。主人公は目を疑った。鏡の中の風景が、部屋の中ではなく、どこか別の場所を映し始めたのだ。そこは、暗い森だった。木々の間を、ぼんやりとした人影がさまよっている。影は一つではなく、十数人もいた。どの影も、顔がはっきりせず、ただ白い目だけがこちらを見つめていた。
地元の少年が叫び声を上げ、部屋の外へ逃げ出した。主人公も逃げようとしたが、足が動かなかった。鏡の中の森が、どんどん近づいてくる。いや、鏡そのものが、部屋の中へと溢れ出しているような感覚だった。都会育ちの少年は、鏡に吸い寄せられるように、ふらふらと近づいていった。「やめろ! 離れろ!」 主人公は叫んだが、少年は聞こえていないようだった。
次の瞬間、少年の体が鏡の中に消えた。まるで、鏡の表面を突き破って落ちるように、姿が掻き消えたのだ。主人公は恐怖で頭が真っ白になった。それでも、必死に体を動かし、部屋の外へ這うようにして逃げ出した。階段を転がり落ち、玄関を飛び出し、丘を駆け下りた。振り返ると、廃屋の窓から、ぼんやりとした光が漏れていた。鏡の部屋から漏れる光だった。
集落に戻った主人公は、すぐに大人たちに助けを求めた。だが、村の老人たちは顔を見合わせ、こう言った。「あの家に近づいたのが間違いだ。もう、助けられない」 それでも、主人公の必死の懇願に、村の猟師たちが廃屋へ向かった。だが、鏡の部屋に少年の姿はなく、鏡も、ただの古びた鏡に戻っていた。猟師たちは、鏡を斧で叩き割った。ガラスの破片が床に散らばる中、どこからか、かすかな笑い声が聞こえたという。
それから数日後、都会育ちの少年は、集落から遠く離れた山奥で発見された。意識不明の状態で、目は虚ろに空を見つめていた。医者に診せても原因はわからず、少年は二度と元の明るさを取り戻すことはなかった。地元の少年は、恐怖から口を閉ざし、主人公にすら何も話さなくなった。
主人公自身も、あの夜のことを思い出すたび、胸の奥に冷たい恐怖が蘇る。あの鏡が映した森は、死者の世界だったのではないか。少年を飲み込んだ鏡は、ただのガラスではなく、何か別の存在への扉だったのではないか。そして、もし自分がもう少し鏡を見つめていたら、自分もあの森に囚われていたのではないか。
今、集落はさらに寂れ、廃屋は完全に崩れ落ちたという。だが、噂では、鏡の破片がまだどこかに残り、月夜になると、森の奥で白い目が光るという。主人公は今でも、鏡を見るたびに、あの夜の恐怖がよみがえる。そして、思うのだ。もし、あの鏡がまだどこかに存在しているなら、決してその前に立ってはいけない、と。