数年前、私は宮崎県の山間部にある小さな集落に住んでいた。そこは、深い森に囲まれた静かな場所で、夜になると星空が美しく輝く一方、どこか不気味な雰囲気が漂う土地だった。特に、地元の古老たちが語る『霧の峠』の伝説は、子供の頃から私の心に恐怖の種を植え付けていた。
その峠は、集落から少し離れた山道にあり、いつも霧が立ち込めていることで知られていた。古老たちによれば、霧の中には『カサカサ』という妖怪が潜んでいるとのこと。カサカサはその名の通り、枯れ葉が擦れるような音を立てながら現れ、夜道を歩く者を惑わし、時には命を奪うという。子供の頃はただの怖い話だと思っていたが、大人になった今でも、峠を通るたびに背筋が冷たくなるのを感じていた。
ある秋の夜、私はどうしても峠を越えなければならなかった。親戚の家で急な用事ができ、車で向かう必要があったのだ。普段なら昼間に通るのだが、その日は仕事が長引き、夜の10時を過ぎていた。空は雲に覆われ、月明かりもほとんどない。車のヘッドライトだけが頼りだった。
峠に差し掛かると、案の定、濃い霧が立ち込めていた。視界は数メートル先までしかなく、ゆっくりと車を進めた。カーラジオは雑音ばかりで、気分を紛らわすこともできない。すると、突然、フロントガラスに何かがぶつかったような音がした。『バンッ』と鈍い音。驚いてブレーキを踏んだが、目の前には何もなかった。動物が飛び出したのかと思ったが、霧のせいで確かめることもできず、ただ心臓が早鐘を打っていた。
気を取り直して再び車を動かした瞬間、今度は後部座席から『カサカサ』という音が聞こえた。まるで枯れ葉が擦れるような、かすかな音。背筋が凍りつき、バックミラーを見たが、もちろん誰もいない。『気のせいだ』と自分に言い聞かせたが、音は止まなかった。カサカサ、カサカサ。まるで何かが見えない場所で這っているような音だった。
パニックになりながらも、峠を抜けるまでは止まるわけにはいかないと、アクセルを踏んだ。だが、霧はますます濃くなり、まるで生き物のように車を包み込んでくる。ヘッドライトの光すら飲み込まれ、道がどこまで続いているのかも分からない。すると、突然、助手席の窓に何かが張り付いた。黒い、細長い影。手のような形だったが、指が異様に長く、ガラスに爪が擦れる音がした。『キキッ』という耳障りな音に、思わず叫び声を上げてしまった。
その瞬間、車内が急に冷え込んだ。息が白くなり、まるで冷蔵庫の中にいるようだった。カサカサという音は今や車内全体に響き、まるで何かが私の周りを這い回っているようだった。恐る恐る助手席を見ると、そこには誰もいない。だが、シートには何か黒い染みのようなものが広がっていた。まるで墨をこぼしたような、不気味な模様。
心臓が喉から飛び出しそうになりながら、必死で車を走らせた。どれくらい時間が経ったのか分からないが、ようやく霧が薄れ、集落の明かりが見えてきた。車を停め、震える手でドアを開けると、冷たい夜気が肺に流れ込んだ。後部座席を確認したが、何もなかった。助手席の黒い染みも消えていた。だが、あの音と感触は、夢でも幻でもなかった。
翌日、集落の古老にその話をすると、彼は顔を青ざめながらこう言った。『カサカサに目をつけられたな。あいつは一度狙った人間を決して逃がさない。次はもっと近くで現れるぞ』。その言葉に、私はぞっとした。それ以来、夜に峠を通ることは絶対にやめた。だが、時折、家の窓の外から『カサカサ』という音が聞こえることがある。まるで、霧の向こうから何かが私を追いかけてくるかのように。
今でもあの夜のことを思い出すと、背筋が凍る。あの妖怪はまだどこかで私を待っているのかもしれない。霧の峠を通るたびに、耳を澄ませてしまう。カサカサという音が、いつかまた私のすぐそばで響くのではないかと。