茨城県の片田舎、田んぼと畑に囲まれた小さな町。そこに、夜遅くまで営業しているコンビニがある。店員はいつも一人、深夜のシフトをこなす若い男だ。彼は地元出身で、この町の何もなさに慣れている。客はほとんど来ない。夜中の2時を過ぎれば、トラックの運転手や、たまに酔っ払いが立ち寄るくらいだ。
その夜も、いつものように静かだった。男はカウンターの裏でスマホをいじりながら、時折棚の整理をしていた。店の外は真っ暗で、駐車場の街灯がぼんやりと光るだけ。田んぼの向こうには、遠くの山のシルエットが黒く浮かんでいる。虫の声が、店のガラス越しに聞こえてくる。
午前2時半頃、自動ドアが「ピンポーン」と鳴った。男は顔を上げたが、誰も入ってこない。ドアのセンサーが誤作動を起こすことはたまにある。古い店舗だから、仕方ないと割り切って、またスマホに目を落とした。だが、妙な違和感があった。店内が、ほんの少しだけ冷えた気がしたのだ。
数分後、また「ピンポーン」。今度も誰もいない。男は少しイラつきながら、ドアのセンサーを確認しに行った。外は静かで、駐車場には一台の車もない。田んぼの稲が風に揺れる音が、遠くで聞こえるだけだ。センサーに異常は見当たらない。男は首を振ってカウンターに戻った。
それから30分ほど経った頃、店の奥、冷蔵庫の並ぶコーナーから物音がした。カサッ、という小さな音。誰かが商品を手に取ったような、かすかな擦れ音だ。男は「いらっしゃいませ」と声をかけながら、そちらへ向かった。だが、誰もいない。冷蔵庫のガラス扉には、自分の顔が映っているだけだ。背後には、誰もいない店の風景。
「疲れてんのかな…」
男はそう呟いてカウンターに戻った。だが、心のどこかで落ち着かない気持ちが広がっていた。さっきの冷気、ドアの音、物音。どれも小さなことだが、続けて起こるとさすがに気味が悪い。
午前3時を少し過ぎた頃、店の外で何か動く気配を感じた。男は窓の外を見た。駐車場の端、街灯の光が届かない暗がりに、誰かが立っている。いや、立っているというより、うずくまっているような、奇妙な姿勢だ。頭を低くして、膝を折り、じっとこちらを見ているようなシルエット。男の心臓がドクンと跳ねた。
「お客さん…?」
声をかけようとしたが、喉が詰まった。相手は動かない。ただ、じっとしている。男は目を凝らした。暗くてよく見えないが、その人影は妙に小柄で、髪が長く見えた。女の子のようだ。だが、なぜかその姿に、言いようのない恐怖が湧いてくる。
男は思い切って外に出ようとした。だが、ドアに手をかけた瞬間、背後でまた音がした。今度ははっきりした音だ。ガラス瓶が床に落ちて転がるような、硬い音。振り返ると、店の中央、飲料の棚の近くに、ペットボトルが一つ、床に転がっている。さっき整理したばかりの棚だ。誰もいないはずなのに。
男の足がすくんだ。外の人影と、店の中の異変。どちらも説明がつかない。心臓の鼓動が耳に響く。意を決して外を見ると、さっきの人影はもういなかった。駐車場は静まり返り、ただ暗闇が広がっているだけだ。
「…気のせいだろ」
男は自分を落ち着けようと呟いた。だが、店に戻ると、さっきのペットボトルが、カウンターのすぐ近くまで転がってきていた。まるで、誰かがわざと動かしたように。
その夜、男は店を閉めるまで、ずっと背中に視線を感じていた。誰もいない店内で、時折、商品が棚から落ちる音がした。自動ドアは、何度も「ピンポーン」と鳴った。だが、監視カメラには何も映っていない。ただ、冷蔵庫のガラス扉に、時折、男の背後に、ぼんやりとした影が映り込むことがあった。女の子のようで、どこか歪んだ姿。
男はその後、店を辞めた。辞める前、最後のシフトの日、店の裏のゴミ捨て場で、子供の小さな靴を見つけた。片方だけで、泥だらけだった。店の周りは田んぼと畑しかない。誰がこんなところに靴を落とすのか。男はそれを見た瞬間、背筋が凍った。あの夜の、人影のことを思い出したからだ。
今でも、そのコンビニは営業を続けている。地元の人は、夜遅くにそこへ行くのを避けるという。理由を聞くと、誰もが口を濁す。ただ、店の裏のゴミ捨て場には、時折、子供の靴やおもちゃが捨てられているという。誰が置いたのか、誰も知らない。
あの町を訪れた人は、夜のコンビニに立ち寄るかもしれない。だが、もし自動ドアが鳴っても、誰も入ってこなかったら。もし、店の奥で物音がしたら。振り返らない方がいい。冷蔵庫のガラス扉に、何かが映っているかもしれないから。