数年前、徳島県の市街地に住む私は、普段と変わらない夜を過ごしていた。
その日は残業で遅くなり、時計はすでに23時を回っていた。駅から自宅までは徒歩で15分ほど。繁華街を抜け、細い路地裏に入るのがいつものルートだ。街灯が少ないその路地は、昼間でも薄暗く、夜になるとまるで別の世界のように静まり返る。それでも、近道であることと、慣れているという安心感から、毎晩のようにその道を通っていた。
その夜、いつものようにイヤホンで音楽を聴きながら歩いていた。路地の入り口に差し掛かると、なぜか急に背筋に冷たいものが走った。理由はわからない。いつもと同じ道、同じ時間なのに、どこか空気が重い気がした。イヤホンを外し、周囲を見回したが、誰もいない。遠くで車のエンジン音が聞こえるだけだ。気のせいだと自分を納得させ、歩き続けた。
路地を半分ほど進んだところで、かすかな音が耳に届いた。『シャリ…シャリ…』。まるで誰かが足を引きずるような、乾いた音。振り返ったが、暗闇に溶け込むように何も見えない。街灯の光が届かない場所で、影が揺れているように感じたが、目を凝らしてもただの闇だった。不安が胸を締め付ける。急いで歩みを速めた。
すると、またあの音。『シャリ…シャリ…』。今度ははっきりと、すぐ近くで聞こえた。心臓が跳ね上がる。振り返る勇気はなく、ただ前を向いて足を動かした。なのに、音はどんどん近づいてくる。まるで私の歩調に合わせるように、一定のリズムで響く。『シャリ…シャリ…』。背後から何かが迫ってくる感覚に、冷や汗が背中を伝った。
路地の終わりが見えてきた。あと少しで大通りに出られる。そう思った瞬間、耳元で囁くような声が聞こえた。『…どこ…行くの…?』。低く、掠れた女の声。凍りついた。体が動かない。振り返れば何かいる。それだけは確信していた。必死で足を動かし、走り出した。大通りに飛び出すと、明るい光と車の音に包まれ、ようやく息をつけた。振り返っても、路地はただの闇。誰もいない。でも、あの声は確かに聞こえた。
家に帰り着いた私は、恐怖で震えながらドアを施錠した。電気をつけ、部屋の明かりに安心を求めたが、胸のざわめきは収まらない。あの声は何だったのか。なぜ私に囁いたのか。考えるほどに恐怖が膨らむ。その夜は一睡もできず、朝まで窓の外を見つめていた。
翌日、職場の同僚にその話をすると、彼女の顔が青ざめた。『その路地、昔、事故があった場所だよ』と彼女は言った。詳しく聞くと、数年前、若い女性がその路地でひき逃げに遭い、亡くなったという。犯人は捕まっておらず、彼女の霊が彷徨っているという噂が地元では囁かれていた。『特に夜、ひとりで歩く人に近づくって…』。同僚の言葉に、昨夜の恐怖が蘇った。
それ以来、私は二度とその路地を通っていない。別の道を選び、遠回りでも明るい道を歩くようになった。でも、時折、夜中にあの声を思い出す。『…どこ…行くの…?』。掠れた囁きが、耳の奥で響く。家にいても、ふとした瞬間に背後を振り返ってしまう。あの夜、もし振り返っていたら。私は今、ここにいるのだろうか。
数ヶ月後、別の同僚から聞いた話が、さらに私の恐怖を掻き立てた。その路地で、最近また似たような体験をした人がいるという。深夜、足を引きずる音を聞き、振り返ったら誰もいなかった。でも、帰宅後に鏡を見ると、肩に赤い手形がついていたという。その人は翌日から体調を崩し、しばらくして引っ越したらしい。
今でも徳島のあの路地は、夜になるとひっそりと闇に沈む。地元の人なら誰もが知っている、近づかないほうがいい場所。私も、もう二度と足を踏み入れるつもりはない。でも、どこかで、あの声がまだ私を待っているような気がしてならない。あなたなら、どうする? 夜の路地で、背後に音を聞いたら。振り返る? それとも、走る?