朽ちた社の呪い

呪い

それは、今から10年ほど前のこと。山形県の山間部にひっそりと佇む小さな集落に、俺は大学の民俗学の研究のために訪れていた。集落は古びた木造の家々が点在し、時間が止まったような静けさに包まれていた。携帯の電波はほとんど届かず、夜になると闇が全てを飲み込むような場所だった。

俺を迎えてくれたのは、集落でただ一人の若者らしい男だった。彼は無口で、どこか怯えたような目つきをしていた。名前を尋ねても曖昧に笑うだけで、俺は彼を仮に「タカ」と呼ぶことにした。タカの家に泊めてもらうことになり、夕飯を囲みながら集落の歴史や伝承について話を聞いた。だが、俺が「この辺りに古い神社や祠はあるか」と尋ねた瞬間、タカの箸が止まり、顔から血の気が引いた。

「そんな話、しない方がいいよ」と、タカは声を震わせた。「特に、森の奥のあれは…触れない方がいい」。彼の言葉はそれだけで、どんなに問い詰めてもそれ以上は何も語らなかった。だが、その怯えた表情が逆に俺の好奇心を刺激した。民俗学を学ぶ者として、禁忌とされるものほど貴重な資料になる。俺は翌日、こっそり森の奥へ向かうことを決めた。

翌朝、タカが畑仕事に出かけた隙に、俺は地図を頼りに森の奥へと足を踏み入れた。鬱蒼とした木々が陽光を遮り、足元には湿った落ち葉が積もっていた。鳥のさえずりすら聞こえず、ただ自分の足音だけが響く。地図に記された「古い祠」は、集落から数キロ離れた場所にあるはずだった。だが、歩けども歩けどもそれらしきものは見つからない。やがて、霧が立ち込め始め、方向感覚すら怪しくなってきた。

どれだけ歩いただろう。突然、目の前に苔むした石段が現れた。石段は急な斜面を登るように続き、その先には朽ちかけた小さな木造の祠があった。屋根は半分崩れ、鳥居は傾き、まるで長い間放置されていたかのようだった。祠の周りには異様な静けさが漂い、まるで空気そのものが重い。俺はカメラを取り出し、祠の写真を撮り始めた。だが、シャッターを切るたびに、どこか遠くから低い唸り声のような音が聞こえてくる気がした。

祠の前に立つと、扉の隙間から何かが見えた。暗闇の中に、白い布のようなものが揺れている。風もないのに、だ。好奇心と恐怖がせめぎ合いながら、俺は震える手で扉を開けた。中には、古びた木箱が置かれていた。箱の表面には奇妙な模様が刻まれ、まるで生きているかのように蠢いているように見えた。俺は思わずその箱に触れてしまった。瞬間、背筋に冷たいものが走り、頭の中で誰かの声が響いた。「開けるな…開ければ、お前も…」

慌てて手を離し、祠を後にした。だが、その日から奇妙なことが続いた。夜になると、部屋の隅で何かが動く気配がする。寝ていると、耳元で囁くような声が聞こえる。「返せ…返せ…」と。タカに相談しようとしたが、彼は俺の顔を見るなり「何をしたんだ!」と叫び、怯えた目で俺を睨んだ。「お前、あの祠に行っただろ! 触ったんだろ!」

タカの話では、あの祠には古い呪いが封じられているという。かつて、集落に災いをもたらした「何か」を鎮めるために、祠に封じたのだと。だが、その「何か」は決して触れてはいけない。触れた者は、呪いによって正気を失い、やがて命を落とす。タカの祖父も、若い頃に祠に近づき、奇妙な行動を繰り返した末に森で首を吊ったという。

俺は笑いものだと感じながらも、内心では恐怖が広がっていた。毎夜、囁き声は大きくなり、夢の中では白い布に包まれた人影が俺を追いかけてくる。集落にいる間、俺は祠に戻り、箱に触れたことを詫びようとしたが、タカに強く止められた。「戻っても無駄だ。もう遅い」と。

やがて、俺は集落を離れ、大学に戻った。だが、呪いは俺を追いかけてきた。部屋の鏡に映る自分の顔が、時折知らない誰かの顔に見える。夜道を歩けば、背後に足音が響く。友人に相談しても「疲れてるんじゃないか」と笑われるだけ。だが、俺には分かっていた。あの祠で触れたものが、俺の心と体を蝕んでいることを。

ある夜、ついに耐えきれなくなった。俺は再び山形の集落へ向かった。タカに会い、祠の呪いを解く方法を聞こうとした。だが、集落に着いた時、タカの家は空っぽだった。隣の老人に尋ねると、タカは数日前、森の奥で首を吊ったという。手に白い布を握りしめ、まるで何かに呼ばれたように。

俺は祠へ向かった。もう後戻りはできない。霧の中、石段を登り、祠の前に立った。扉を開けると、木箱はまだそこにあった。だが、今度は箱がひとりでに開き、中から黒い煙のようなものが溢れ出した。煙は俺の体を包み込み、頭の中で無数の声が叫び始めた。「お前も…お前も…我々と共に…」

気がつくと、俺は森の外にいた。手には白い布が握られていた。それ以来、俺は毎夜、祠の夢を見る。白い布に包まれた人影が、俺を森の奥へと誘う。いつか、俺もタカのようになるのではないか。そんな恐怖が、俺の心を蝕み続けている。

あの祠は今もそこにある。山形の山奥で、静かに次の獲物を待っている。もし、森の奥で朽ちた祠を見つけたら、決して近づかないでほしい。触れなければ、呪いは目を覚まさない。だが、一度触れてしまったら…もう、逃げられない。

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