廃墟の囁き

SFホラー

今から数十年前、栃木県の山奥に、忘れ去られた廃墟があった。かつては小さな診療所として使われていた建物だが、奇妙な噂が絶えなかった。患者が消え、医者が夜な夜な不気味な実験を行っているというのだ。やがて診療所は閉鎖され、誰も近づかなくなった。それでも、地元の者たちは、夜になると廃墟から漏れる光や、誰もいないはずの建物から響く低い呻き声を耳にしていた。

その頃、俺は大学で天文学を専攻する学生だった。夏休みを利用して、栃木の山奥で星空の観測をしようと計画していた。地元の友人が「いい場所がある」と教えてくれたのが、その廃墟の近くの丘だった。廃墟の話は聞いていたが、科学を信じる俺にとって、ただの迷信に過ぎなかった。友人と二人、テントと観測機材を担いでその場所に向かった。

丘に着いたのは夕暮れ時だった。廃墟は丘のふもとにあり、崩れかけたコンクリートの壁と、黒く空いた窓が不気味に佇んでいた。友人は「近づかなければ大丈夫だよ」と笑ったが、どこか声が震えているように感じた。俺たちはテントを張り、夜空が暗くなるのを待った。星は美しく、期待通りの観測環境だった。だが、夜が深まるにつれ、妙な違和感が俺を襲った。風がないのに、木々がざわめく音。遠くで、誰かが囁くような声。友人も気づいたようで、「何か聞こえない?」と顔を青くした。

「ただの風だろ」と俺は強がったが、内心では落ち着いていられなかった。観測を続けようとしたその時、廃墟の方向から、かすかな光が漏れているのに気づいた。まるで誰かが懐中電灯を持っているかのように、揺らめく光だった。友人は「見に行こうぜ」と提案したが、俺は即座に反対した。「危ないからやめろ。明日、明るい時に見に行けばいい」

だが、友人は聞かなかった。好奇心が恐怖を上回ったのだろう、彼は懐中電灯を手に廃墟に向かって歩き始めた。仕方なく、俺も後を追った。廃墟に近づくにつれ、空気が重くなり、まるで何かが見えない力で俺たちを引き寄せているようだった。建物の中は、埃とカビの匂いが充満し、床には割れたガラスや古い医療器具が散乱していた。光は奥の部屋から漏れているようだった。

友人が先に進み、俺は後ろで様子を伺った。すると、突然、彼が立ち止まり、「お前、これ見てみろ」と震える声で言った。光の先に、錆びついた手術台があった。その上には、奇妙な装置が置かれていた。見たこともない機械で、ガラス管やワイヤーが複雑に絡み合い、まるで生きているかのように微かに振動していた。友人が近づこうとした瞬間、機械から低い唸り声が響き、部屋全体が震えた。

「逃げろ!」俺は叫び、友人の腕を引っ張った。だが、その時、機械のガラス管が光り出し、部屋に不気味な青白い輝きが広がった。光の中から、何かが現れた。人間の形をしていたが、顔はなかった。いや、顔があるはずの場所が、黒い霧のようなもので覆われていた。そいつはゆっくりと俺たちに近づいてきた。友人が悲鳴を上げ、俺は恐怖で足がすくんだ。次の瞬間、そいつの手が友人に触れた。友人の体が一瞬硬直し、目が白く濁った。

俺は必死で逃げ出した。廃墟の出口に向かって走りながら、背後で友人の声が聞こえた。だが、それは彼の声ではなかった。機械的な、感情のない声で、「ここに留まれ」と繰り返していた。俺は振り返らず、丘のテントまで全力で走った。テントに飛び込み、夜が明けるまで震えながら息を潜めた。廃墟からの光は次第に消え、囁き声も聞こえなくなった。

朝になり、俺は廃墟に戻る勇気が出なかった。友人の姿はどこにもなく、警察に連絡したが、彼は見つからなかった。廃墟を調べた警察は、古い医療器具と壊れた機械しか見つけられなかったという。だが、俺は知っている。あの夜、俺たちが目にしたものは、この世界のものではなかった。科学では説明できない、別の次元から来た何かだった。

それから数年、俺は天文学をやめ、栃木には二度と戻っていない。だが、星空を見るたびに、あの夜の恐怖が蘇る。廃墟は今もそこにあるという。地元の者は、夜になると再び光が見えると囁いている。もし、あの丘で星を見ようと思うなら、決して廃墟に近づかないでほしい。あの機械はまだ動いている。そして、俺の友人のように、触れた者を別の世界へ引きずり込むのだ。

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