凍てつく森の囁き

オカルトホラー

数年前、北海道の山奥にある小さな集落に、大学の研究で訪れたことがあった。

私は民俗学を専攻する大学院生で、指導教官から「北海道の山間部に伝わる、ある奇妙な風習」を調査するよう命じられた。集落の名は仮に「霧谷」と呼ぼう。そこは携帯の電波も届かず、舗装されていない細い山道を車で数時間揺られた先に、ようやくたどり着くような場所だった。

霧谷に着いたのは、晩秋の夕暮れ時。空はどんよりと曇り、冷たい風が木々の間を縫うように吹いていた。集落は10軒ほどの古い家屋が点在するだけで、人の気配はほとんどなかった。唯一の宿泊施設は、集落の外れにある古びた民宿だった。民宿の主人は無口な老女で、瘦せこけた顔に深い皺が刻まれていた。彼女は私の顔を見るなり、どこか怯えたような表情を浮かべ、「森には近づかないでくださいね」とだけ告げた。その言葉が、なぜか胸に引っかかった。

調査初日、私は集落の古老たちに話を聞くことから始めた。彼らはみな、よそ者である私に警戒心を抱いているようだったが、しぶしぶ口を開いてくれた。風習の詳細は曖昧で、「森の神を鎮めるための儀式」があること、そして「特定の夜には森に入ってはいけない」ということだけが繰り返された。どの家を訪ねても、皆同じことを言うのだ。「森には何かいる」。具体的に何がいるのか、誰も明言しない。ただ、目を逸らし、声を震わせながらそう言うのだ。

その夜、民宿の薄暗い部屋でノートを整理していると、窓の外から奇妙な音が聞こえてきた。カサカサと、枯れ葉を踏むような音が、遠くから徐々に近づいてくる。窓に目をやると、ガラス越しに濃い霧が立ち込めているのが見えた。音は一瞬止まり、静寂が訪れた。だが、次の瞬間、ガリガリと爪でガラスを引っかくような鋭い音が響いた。私は凍りつき、息を殺して窓を見つめた。そこには何も見えない。ただ、霧がゆらゆらと揺れているだけだ。しばらくして音は遠ざかり、ようやく私は息をつけた。だが、背筋に冷たいものが走り、その夜は一睡もできなかった。

翌日、集落の中心にある小さな神社を訪れた。そこには古い木製の鳥居があり、苔むした石段を登ると、ひび割れた狛犬が佇んでいる。神社の宮司らしき老人に話を聞くと、彼は目を細めてこう言った。「霧谷の森は、昔から神様の領域だ。だが、神様はいつも優しいわけじゃない。怒らせると、取り返しのつかないことになる」。彼はそれ以上語らず、私を追い出すように神社を閉めた。

調査を進めるうち、私はある奇妙な事実に気づいた。集落の住民たちは、特定の時期になると決まって森の奥にある「禁足地」と呼ばれる場所に供物を捧げに行くのだ。供物は、米や酒、そして時には生きた鶏だった。だが、数年前からその儀式が途絶えているという。理由を尋ねると、皆口を閉ざした。ただ、一人の老婆が、震える声でこう呟いた。「あれが怒ったからだ。あれが、許してくれなかったからだ」。その「あれ」とは何か、彼女はそれ以上語らなかった。

調査も終盤に差し掛かったある夜、私は禁足地を自分の目で確かめることにした。民宿の老女にそのことを告げると、彼女は血相を変えて叫んだ。「行っちゃいけない! 死にたいのか!」 だが、私は好奇心を抑えきれなかった。夜の森は、昼間とはまるで別世界だった。懐中電灯の光が霧に飲み込まれ、足元以外ほとんど見えない。木々の間を縫う風は、まるで誰かが囁いているかのように聞こえた。ザザッ、ザザッと、背後で何かが動く音がする。私は振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、霧が濃くなる一方だった。

どれだけ歩いただろうか。突然、目の前に開けた空間が現れた。そこが禁足地だった。地面には古い石碑が並び、苔に覆われた祭壇のようなものが中央にあった。祭壇には、腐った果物や乾いた血のようなものがこびりついている。空気が急に重くなり、耳鳴りが止まなかった。私は写真を撮ろうとカメラを構えたが、その瞬間、背後でガサッと大きな音がした。振り返ると、霧の中に人影のようなものが立っていた。いや、人影ではない。背が高く、異様に細長いシルエット。頭部には角のような突起が見えた。私は恐怖で動けなかった。その「もの」は、じっと私を見つめているようだった。次の瞬間、低い唸り声が響き、そいつが一歩踏み出した。私は我に返り、全力で走った。

どれだけ走ったのかわからない。民宿に戻った時には、夜が明けかけていた。老女は私の姿を見るなり、泣きそうな顔で「生きてたのね」と呟いた。私は震える手でカメラを確認したが、禁足地の写真は全て真っ黒だった。まるで、何かに塗りつぶされたかのように。

翌日、私は霧谷を後にした。だが、あの夜のことは今でも忘れられない。時折、夜中にカサカサという音を聞くことがある。窓の外を見ると、濃い霧が立ち込めていることがある。そして、ガリガリとガラスを引っかく音が響く。あの「もの」は、まだ私を見ているのかもしれない。

霧谷の森には、二度と近づかない方がいい。あそこには、私たちの理解を超えた何かがあるのだから。

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