誰もいない教室の笑い声

実話風

それは、夏の終わり、茨城県の片田舎にある高校での出来事だった。

私はその学校の新米教師で、都会から赴任してきたばかりだった。学校は古く、校舎の廊下はどこか湿った匂いが漂い、夕暮れになると薄暗さが一層際立つ。特に、旧校舎と呼ばれる建物は、普段は使われておらず、生徒たちの間では「何かいる」と囁かれていた。私はそんな噂を一笑に付していた。科学を信じる人間にとって、幽霊なんてものはただの迷信に過ぎないと思っていたからだ。

その日、職員会議が長引き、校舎に残っていたのは私一人だった。時計はすでに夜の8時を回っていた。職員室で明日の授業の準備を終え、校舎を出るために廊下を歩いていると、どこからか奇妙な音が聞こえてきた。キーキー、という、まるで古い椅子を引くような音だ。最初は風のせいかと思ったが、音は一定のリズムで繰り返され、だんだんと近づいてくるように感じられた。私は足を止め、耳を澄ませた。音は旧校舎の方から聞こえてくるようだった。

「誰かいるのか?」

私は声をかけたが、返事はない。静寂が重くのしかかる中、音は一瞬止まり、代わりに小さな笑い声が響いた。子どものような、しかしどこか不自然な、甲高い笑い声だった。背筋に冷たいものが走った。生徒が残っているはずはない。夜の校舎に、こんな時間にいるはずがないのだ。

好奇心と不安が交錯する中、私は音のする方へ向かって歩き始めた。旧校舎の入り口に立つと、ドアは半開きで、隙間から冷たい空気が流れ出していた。懐中電灯代わりにスマートフォンのライトを手に持ち、ゆっくりと中へ踏み込んだ。廊下は埃っぽく、足音がやけに大きく響く。笑い声は一階の奥、恐らく教室のひとつから聞こえてくるようだった。

「誰だ? ふざけるなよ!」

再び声をかけたが、返事はない。ただ、笑い声が少しずつ大きくなり、複数の声が重なり合っているように聞こえた。私はある教室の前にたどり着いた。ドアには「3年B組」と書かれたプレートが錆びついたまま掛かっている。笑い声はこの中から聞こえてくる。私は意を決してドアを開けた。

教室は真っ暗だった。窓から差し込む月明かりだけが、机や椅子をぼんやりと浮かび上がらせている。しかし、誰もいない。笑い声は止んでいた。シーンとした静寂の中、なぜか空気が重く感じられた。まるで誰かに見られているような、得体の知れない圧迫感があった。私はライトで教室を照らし、隅々まで確認したが、何も異常はない。ホッと息をつき、ドアを閉めようとしたその瞬間、背後で再び笑い声が響いた。

振り返ると、教室の中央に、ひとつの机がポツンと置かれているのが目に入った。さっきまでそんな机はなかったはずだ。心臓がドクンと跳ねた。机の上には、何か白いものが置かれている。恐る恐る近づくと、それは古びたノートだった。表紙には何も書かれていないが、ページを開くと、ぎっしりと文字が書かれていた。子どものような乱雑な字で、こう書かれていた。

「ここにいるよ。いつも見てるよ。一緒に遊ぼう。」

その瞬間、教室の隅でガタッと音がした。ライトを向けると、椅子がひとつ、まるで誰かが座ったかのように揺れている。私は恐怖に駆られ、ノートを手に持ったまま教室を飛び出した。廊下を走り、旧校舎を抜け、新校舎の入り口まで一気に駆け抜けた。振り返ると、旧校舎の窓に、ぼんやりとした人影のようなものが揺れている気がした。

翌日、私はノートを職員室で改めて確認した。だが、不思議なことに、昨夜見た文字は消えていた。ページは真っ白で、何も書かれていない。私はただの錯覚だったのか、それとも疲れからくる幻覚だったのか、と思うことにした。しかし、その日から、奇妙なことが続いた。

授業中、誰もいないはずの教室の後ろで、クスクスと笑い声が聞こえるようになった。生徒たちもざわつき、誰かがふざけているのかと疑ったが、誰もそんなことをする者はいなかった。夜、校舎に残って仕事をすると、遠くからキーキーという椅子を引く音が聞こえてくる。しまいには、私のデスクに、誰かが置いたようにあのノートが現れるようになった。ページはいつも真っ白だったが、開くたびに、かすかに笑い声が聞こえる気がした。

ある日、ついに我慢できなくなり、私はそのノートを旧校舎の教室に戻すことにした。夜、誰もいない校舎に忍び込み、あの3年B組の教室へ向かった。ドアを開けると、教室は前と同じように静まり返っていた。私はノートを元の机に置き、「もう出てこないでくれ」と呟いた。その瞬間、背後でバン!と大きな音がして、振り返るとドアが閉まっていた。鍵をかけた覚えはないのに、ドアは固く閉ざされている。

パニックになりながらドアを叩いていると、教室のあちこちから笑い声が響き始めた。子どもの声、女の声、男の声、さまざまな声が重なり合い、私を囲むように大きくなっていく。ライトを手に持つ手が震え、教室を見回すと、机や椅子が少しずつ動き始めている。まるで生きているかのように、ガタガタと揺れ、こちらに近づいてくる。私は叫びながらドアを叩き続けたが、笑い声はますます大きくなり、耳を覆いたくなるほどだった。

どれくらい時間が経ったのか、突然、笑い声がピタリと止んだ。ドアがスッと開き、私はよろめきながら廊下に飛び出した。振り返ると、教室は静かで、何もなかったかのように見えた。ノートは机の上にそのまま残っていた。私は二度とあの教室には近づかなかった。

それからしばらくして、私は学校を辞めた。都会に戻り、新しい仕事を見つけたが、あの夜のことは今でも夢に見る。あの笑い声、あのノート、そして旧校舎の暗闇。あれは本当に私の錯覚だったのだろうか。それとも、旧校舎には本当に何かいるのだろうか。

今でも、時折、夜中にキーキーという音が聞こえることがある。振り返っても何もないが、そのたびに心臓が縮こまる。あのノートに書かれていた言葉が、頭から離れない。

「ここにいるよ。いつも見てるよ。一緒に遊ぼう。」

もしかしたら、それはまだ私を追いかけているのかもしれない。

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