古井戸の囁き

実話風

京都の山奥、鬱蒼とした森に囲まれた小さな集落があった。そこには古い屋敷がひっそりと佇み、かつては名家が住んでいたというが、今は誰も近づかない廃墟と化していた。屋敷の裏庭には、苔むした古井戸があり、村の古老たちは「あの井戸には触れるな」と口を揃えた。理由を尋ねても、誰もはっきりとは答えなかった。ただ、夜な夜な井戸から聞こえる「囁き」が、人の心を狂わせると囁かれていた。

ある夏の夜、村に住む若者たちが肝試しを企てた。都会から移り住んできたばかりの青年、健太もその一人だった。健太は幽霊など信じていなかった。仲間たちに煽られ、半ば冗談で「あの井戸を覗いてやる」と宣言したのだ。村の若者たちは笑いながらも、どこか怯えた目で彼を見ていた。「やめとけよ」と忠告する者もいたが、健太は意気揚々と屋敷へと向かった。

月明かりが薄く照らす夜、健太は一人、屋敷の裏庭に立っていた。古井戸は思ったより大きく、黒々とした口を開けていた。井戸の縁には奇妙な模様が刻まれ、まるで何かを封じる呪文のように見えた。健太は懐中電灯を手に、井戸の底を覗き込んだ。光が届かないほど深い。底は見えず、ただ冷たい空気が漂ってくるだけだった。

その時、かすかな音が聞こえた。囁き声のような、しかし何を言っているのかわからない声。健太は耳を澄ませた。声は次第に大きくなり、まるで複数の人間が一斉に囁いているようだった。「……来い……」「……こちらへ……」 健太の背筋に冷たいものが走った。冗談のはずだった。だが、なぜか足が動かない。まるで井戸の底から何かに引き寄せられているようだった。

ふと、懐中電灯の光が揺れた。井戸の底に、うっすらと白い影が浮かんだ。女の姿だった。長い黒髪が水面のように揺れ、顔は見えない。彼女がゆっくりとこちらを見上げるように首を動かした瞬間、健太の全身が凍りついた。女の顔には目がなかった。代わりに、黒い穴が二つ、ぽっかりと開いていた。

「ひっ……!」 健太は声を上げ、井戸から飛び退いた。だが、井戸の縁に足を引っかけ、バランスを崩した。その瞬間、背後から冷たい手が彼の肩を掴んだ。「来なさい……」 女の声が、耳元でハッキリと響いた。振り返る勇気はなかった。健太は必死で走り出し、屋敷を抜け、集落まで逃げ帰った。

翌朝、健太は仲間たちにその話をした。だが、誰も信じなかった。「お前、怖気づいただけだろ」と笑いものだ。だが、健太の様子がおかしいことに、徐々に皆が気づき始めた。彼は夜になると怯えたように部屋の隅で震え、時折「囁きが聞こえる」と呟いた。数日後、健太は姿を消した。村人たちが屋敷を捜索したが、彼の痕跡はどこにもなかった。唯一、井戸の縁に新しい爪痕が残っていた。

それからというもの、村では奇妙な出来事が続いた。井戸の近くを通った者は、必ずと言っていいほど「囁き」を聞いた。ある者は、井戸の底から這い上がってくる白い影を見たと言い、ある者は、夜中に自分の名前を呼ぶ声を聞いたと怯えた。村の古老たちは、ついに井戸を封じることを決めた。コンクリートで蓋をし、呪符を貼り付けた。だが、それでも囁きは止まなかった。蓋の下から、かすかに、だが確かに、声が漏れていた。

数年後、村を訪れた旅人がその話を聞き、興味本位で井戸の蓋を外した。すると、井戸の中から無数の手が這い出し、旅人を引きずり込んだという。それ以来、村は完全に無人となった。今も、京都の山奥には、苔むした井戸が残っている。夜になると、囁きが聞こえるという。もし、森の奥で古井戸を見つけたら、決して覗いてはいけない。あなたの名前を呼ぶ声が、聞こえてくるかもしれない。

村の伝承によれば、あの井戸はかつて、異世界への門だったという。名家が何らかの儀式を行い、禁忌を犯したことで、門が開かれた。井戸の底には、こちら側ではない「何か」が住んでいる。囁きは、その存在がこちらの世界に干渉する声だ。健太が見た女は、おそらくその世界の住人。いや、かつてこの世界の人間だったのかもしれない。彼女の空洞のような目は、健太の心に焼き付いたまま、消えることはなかった。

今も、京都の山奥を歩く者たちがいる。ハイキングや探検のために森に入る者たちだ。彼らは知らない。あの井戸が、どれほど危険かを。囁きは、聞こえた者を決して逃がさない。一度耳にしてしまったら、どこに逃げても、声は追いかけてくる。あなたが今、静かな夜にこの話を読み、ふと耳を澄ませたとき、遠くからかすかな囁きが聞こえたら……それは、ただの風の音だと信じたい。

だが、もしあなたの名前を呼ぶ声が聞こえたら。決して振り返ってはいけない。井戸の底から、黒い穴の目が、あなたを見つめているかもしれない。

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