数年前、私は高知の山奥にある小さな集落を訪れた。そこは、舗装もまばらな道が続く場所で、観光地というより、地元の人々がひっそりと暮らす地域だった。目的は、都会の喧騒から離れて静かな時間を過ごすこと。インターネットで偶然見つけた、古びた民宿を予約していた。その宿は、口コミも少なく、情報らしい情報は「静かで自然に囲まれている」という一文だけ。だが、それが私にはちょうど良かった。
到着したのは夕暮れ時。宿は想像以上に古く、木造の二階建てで、軒先には苔が生えていた。玄関の引き戸を開けると、かすかにカビ臭い空気が鼻をついた。出迎えてくれたのは、年配の女将一人。笑顔は穏やかだったが、どこか目が虚ろで、言葉少なに私を部屋に案内した。部屋は二階の角部屋。畳の匂いと、窓から見える深い森が、都会では味わえない落ち着きを与えてくれた。
その夜、夕食を終え、部屋で本を読んでいると、どこからか奇妙な音が聞こえてきた。最初は風が木々を揺らす音かと思ったが、よく耳を澄ますと、それは規則的な足音だった。トン、トン、トン……。まるで誰かが廊下を歩いているようだ。だが、女将は「今夜はあなた一人よ」と言っていた。宿泊客は私だけで、女将自身も一階の奥で寝ると聞いていた。不思議に思いながらも、疲れていた私は気にせず眠りについた。
翌朝、朝食の席で女将にそのことを尋ねると、彼女は一瞬手を止めた。「足音? そんなはずないわ。この宿は古いから、木が軋む音よ」。彼女の声は落ち着いていたが、なぜか視線が私の背後をちらりと見た気がした。その日は近くの川で釣りを楽しみ、宿に戻ったのはまた夕方。部屋に戻ると、昨日と変わらない静けさだったが、なぜか空気が重い。窓の外を見ると、森の奥に何か動く影のようなものが見えた。動物だろうか? しかし、その影は二本脚で立つ人の形に似ていた。
夜が更けるにつれ、不安が募った。すると、またあの足音が聞こえてきた。トン、トン、トン……。今度ははっきりと、廊下のすぐ外だ。ドアの向こうに誰かがいる。私は息を殺して布団に潜り込んだが、足音は止まらない。それどころか、ドアの引き戸がわずかにガタガタと揺れる音まで聞こえてきた。心臓がバクバクと鳴り、冷や汗が背中を伝う。意を決して「誰!?」と叫んだ瞬間、音がピタリと止んだ。しばらく待ったが、何も起こらない。恐る恐るドアを開けると、廊下は真っ暗で誰もいない。ただ、床にうっすらと濡れた足跡のようなものが続いていた。
翌日、女将にそのことを話すと、彼女の顔が一瞬青ざめた。「足跡なんて……。雨でも降ったのかしら」。だが、天気は連日晴れていた。彼女の言葉に違和感を覚えつつ、私はもう一泊する予定だったが、居心地の悪さに耐えきれず、その日のうちに宿を後にした。荷物をまとめているとき、部屋の窓から森を見ると、またあの影がいた。今度ははっきりと、黒い人影がこちらを見つめているように感じた。急いで車に乗り込み、宿を後にしたが、バックミラーに映る森の奥に、その影がゆっくりと動くのが見えた。
家に帰ってからも、あの宿での出来事が頭から離れなかった。気になってその集落のことを調べてみると、興味深い話を耳にした。数十年前、その地域では行方不明者が相次いだという。特に、宿の近くの森は「入ると戻れない」と言われ、村人たちは近づかないようにしていたらしい。さらに、宿自体にも奇妙な噂があった。かつて、そこに泊まった客が「夜中に知らない人が部屋を覗く」と訴え、以来、客足が遠のいていたという。女将はそのことを知っていたはずなのに、なぜ私に何も言わなかったのか。
それからしばらくして、偶然知り合った地元出身の人にその話をすると、彼は顔を曇らせた。「あの宿、まだやってるんだ……。実は、あの森には昔から変な話があってね。異世界の入口があるって噂なんだ」。彼によると、森の奥には古い祠があり、そこに近づくと「別の世界」に引き込まれるという。祠の周りでは、時間が歪むような感覚や、見知らぬ人影が見えるという話が絶えなかった。宿の女将の祖母も、かつてその祠にまつわる儀式に関わっていたらしいが、詳しいことは誰も知らないという。
私は科学的な人間だ。幽霊や異世界なんて信じない。だが、あの宿での体験は、どうしても説明がつかない。足音、濡れた足跡、森の影……。そして、女将の不自然な態度。あれは本当にこの世界のものだったのか? 時折、夜中に目が覚めると、あのトン、トン、トンという足音が耳に蘇る。まるで、何かがまだ私を追っているかのように。
今でも、高知のあの山奥を思い出すと、背筋がゾッとする。あの宿は今もひっそりと営業しているらしい。誰かがこの話を聞いて、好奇心から訪れるかもしれない。だが、もし行くなら、夜の足音には気をつけてほしい。そして、森の奥の影には、決して目を合わせないように。