水底に響く子守唄

怪談

数年前、俺は友人と岡山県の山奥にある小さな集落にキャンプに出かけた。

そこは地図にも載らないような場所で、携帯の電波も届かない。友人の一人が「地元のじいちゃんから聞いた」と自慢げに話していたその場所には、透明度が高いことで知られる湖があった。名前は誰も知らない。ただ、地元民は「子守湖」と呼んでいた。なぜそんな名前なのか、誰も教えてくれなかった。

湖畔にテントを張り、俺たちは焚き火を囲んでビールを飲んだ。夜が深まるにつれ、湖の水面は星空を鏡のように映し、静寂があたりを包み込んでいた。風もないのに、時折、湖の奥から小さな波紋が広がるのが見えた。「魚かな」と誰かが笑ったが、俺はその波紋が不自然で、どこか不気味に感じられた。

その夜、テントの中で寝袋にくるまっていた俺は、ふと目を覚ました。時計は深夜二時を少し過ぎていた。外は静かすぎるほど静かで、虫の声すら聞こえない。だが、どこか遠くから、かすかな歌声が漂ってきた。女の声だった。低く、ゆったりとしたメロディ。まるで子守唄のようだ。最初は夢でも見ているのかと思ったが、歌声はどんどんはっきりしてくる。湖の方から聞こえてくるのだ。

「誰かいるのか?」

俺は寝袋から這い出し、テントの入り口をそっと開けた。冷たい夜気が頬を撫で、湖の水面が月明かりにきらめいている。歌声はまだ続いている。友人を起こそうか迷ったが、なぜか体が勝手に動き、俺は一人で湖のほとりへと歩き出した。まるでその歌声に導かれているかのように。

湖畔に立つと、歌声はさらに近く、まるで水底から響いてくるようだった。目を凝らすと、水面に何かが見えた。いや、誰かだ。長い髪を水に漂わせた女が、湖の中央でゆらゆらと揺れている。彼女の目は俺をじっと見つめ、口元は歌を紡ぎ続けている。だが、その姿はどこかおかしい。彼女の体は水面に浮かんでいるのに、足元がまるで見えない。まるで水と一体化しているかのように、彼女の輪郭は揺らめいていた。

恐怖が背筋を走った瞬間、彼女の目が一瞬光った気がした。次の瞬間、歌声が止み、湖面が急に波立ち始めた。波はどんどん大きくなり、まるで何かが水底から這い上がってくるような音が響く。俺は後ずさりしようとしたが、足が地面に縫い付けられたように動かない。彼女の姿は消え、代わりに水面が真っ黒に染まった。そこから、無数の手が水をかき分けて現れた。白く、骨ばった手が、俺に向かって伸びてくる。

「助けてくれ!」

やっと声が出た瞬間、背後から誰かに肩を掴まれた。振り返ると、友人の一人が青ざめた顔で立っていた。「何やってんだ! 戻れ!」 彼の声で我に返った俺は、必死にテントまで走った。テントに戻ると、他の友人も目を覚ましていて、皆が怯えた顔で湖を見つめていた。「お前も聞いたのか? あの歌…」 一人が震える声で言った。全員が同じ歌声を聞いていたのだ。

夜が明けるまで、俺たちはテントの中で身を寄せ合い、湖の方を見ないようにした。だが、朝になっても恐怖は消えなかった。テントの外に出ると、湖畔にあった俺たちの荷物がすべて水をかぶっていた。まるで誰かが湖から這い出て、荷物を引きずり込んだかのように。俺のバックパックには、濡れた手形がくっきりと残っていた。

急いで荷物をまとめ、俺たちは集落を後にした。車に乗り込む前、ふと湖を見ると、水面は再び静かで、まるで昨夜の出来事が嘘のようだった。だが、俺の心にはあの歌声がこびりついて離れない。集落を出る途中、道端で煙草を吸っていた老人が俺たちを見ながらつぶやいた。「子守湖には近づくな。あそこは水の神様の領域だ。」 その言葉に、俺たちは何も答えられなかった。

それから数週間後、俺はあの湖について調べようとしたが、何も情報は出てこなかった。地元民に話を聞いても、誰もが口を閉ざすか、話をはぐらかすばかりだ。ただ、一人の老女が、遠い目をしてこう言った。「あの湖は、昔、子を失った母たちの涙でできたんだ。夜になると、彼女たちが子守唄を歌う。聞いちゃいけないよ。あれは、生きてる者を呼ぶ歌だから。」

今でも、静かな夜に目を閉じると、あの歌声が聞こえてくる気がする。低く、ゆったりと、俺を水底へと誘うように。

(以下、約6,000文字になるよう調整しつつ、物語の余韻を残す)

帰宅してからも、俺はあの夜のことを忘れられなかった。夢の中で、何度も湖の女に会った。彼女の目はいつも俺を見つめ、口元は歌を紡ぐ。目が覚めると、枕元がなぜか濡れていることがあった。最初は汗だと思っていたが、指で触れると、冷たく、かすかに塩の匂いがした。

友人の一人も、妙な体験をしたと言ってきた。あのキャンプの後、彼は夜中に水音を聞くようになったという。シャワーを浴びているとき、誰もいないはずの浴室で、誰かが水をかき分けるような音がするらしい。もう一人の友人は、湖の写真を撮っていたことを思い出し、データを確認したが、すべての写真が真っ黒だった。まるでカメラが何も映さなかったかのように。

俺たちは二度とあの湖には近づかないと誓った。だが、時折、ネットで似たような話を目にする。岡山の山奥で、夜に子守唄を聞いたという投稿。湖のほとりで白い手を見たという書き込み。どれも曖昧で、すぐに削除されるものばかりだが、俺にはそれが本当のことのように思えて仕方ない。

ある夜、俺はとうとう我慢できず、あの集落のことをもう一度調べようとした。だが、なぜか地図アプリでその場所を見つけられない。まるで集落ごと消えてしまったかのように。苛立ちと恐怖が入り混じる中、俺は古いノートにメモしていた湖の位置を頼りに、地図を広げた。そこには確かに道があったはずなのに、指でなぞる地図には、何もない空白が広がっていた。

その瞬間、部屋のどこかから、かすかな歌声が聞こえた。低く、ゆったりとした子守唄。窓の外を見ると、月明かりが揺らめき、まるで水面のようだった。俺は息を殺し、耳を澄ませた。歌声は近づいてくる。ドアの向こう、廊下の奥から。いや、もっと近い。俺の背後から。

振り返る勇気はなかった。目を閉じ、ただじっと耐えた。歌声はやがて遠ざかり、ようやく静寂が戻ってきた。だが、俺は知っている。あの歌声は、俺を忘れていない。いつかまた、俺を水底へと呼ぶために。

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