今から20年ほど前、鹿児島県の山深い地域に、俺は大学の夏休みを利用して帰省していた。実家は小さな集落にあり、周囲を鬱蒼とした森と切り立った崖に囲まれている。携帯の電波も届かず、夜になると星空と虫の声だけが世界を支配するような場所だ。地元では「峠の向こうには行くな」と子供の頃から聞かされていた。峠の向こうには古い神社があるが、誰も近づかない。理由を尋ねても、親も祖父母も曖昧な笑みを浮かべるだけで、まともに答えてくれなかった。
その夏、俺は大学の友人二人を連れて帰省していた。都会育ちの彼らは、田舎の静けさに興奮し、「何か面白いことない?」とそわそわしていた。地元の居酒屋で酒を飲みながら、俺は軽い気持ちで峠の話をした。「向こうに古い神社があってさ、なんかヤバいらしいよ」と。案の定、友人の一人が目を輝かせ、「それ、行ってみようぜ!」と言い出した。もう一人は少し渋ったが、酒の勢いもあって、結局三人で翌日の夜、峠を越えて神社に行く計画を立ててしまった。
翌日、夕暮れ時。俺たちは懐中電灯とビールを手に、峠の入口に立った。細い山道は苔むしていて、昼間でも薄暗い。風が木々の間を抜け、どこか遠くで鳥の鳴き声が途切れた。友人の一人が「マジで不気味だな」と笑ったが、その声にはどこか強がりの響きがあった。俺も内心、子供の頃の警告が頭をよぎり、胸がざわついていた。それでも、引き返すなんて格好悪いと思いやめた。
山道を登り始めて30分ほど経った頃、霧が立ち込めてきた。鹿児島の山は夏でも霧が出ることがあるが、その夜の霧は異様に濃かった。懐中電灯の光が白い靄に飲み込まれ、視界は数メートル先までしか届かない。足元は滑りやすく、時折、ガサッと茂みが揺れる音に全員がビクッとした。「鹿か何かだろ」と友人が言ったが、誰も本気で信じていなかった。空気は冷たく、湿った匂いが鼻をついた。
やがて、道の先にぼんやりと鳥居が見えてきた。木製の古い鳥居は、霧の中でまるで浮いているように見えた。友人の一人が「これがその神社?」と呟いたが、俺は違和感を覚えた。地元の話では、神社はもっと荒れ果てているはずだ。でも、目の前の鳥居は不自然にしっかりしていた。まるで昨日建てられたかのように、苔も剥がれもない。それに、鳥居の先に続く石段が、霧の奥に吸い込まれるように長く伸びている。
「なんか…変じゃね?」と俺が言うと、友人の一人が「ビビってんのかよ!」と笑って先に進んだ。もう一人は黙って後ろをついてきたが、その顔は青ざめていた。石段を登るたびに、足音が妙に響く。タッ、タッ、タッ。自分の足音のはずなのに、どこか別のリズムが混じるような気がした。振り返っても、誰もいない。霧が濃すぎて、友人の背中すらぼやけて見える。
石段を登り切ると、広場のような場所に出た。そこには小さな社があったが、扉が閉まっていて、中は真っ暗だ。社の周りには古い石灯籠が並び、どれも不気味に傾いている。友人の一人が「これ、開けてみる?」と社の扉に手をかけようとした瞬間、背後でガサッと音がした。全員が一斉に振り返ったが、霧の向こうに何も見えない。「風だろ」と友人が言ったが、誰も動かなかった。その時、遠くから足音が聞こえてきた。タッ、タッ、タッ。ゆっくり、だが確実に近づいてくる。
「誰かいるのか?」と友人が叫んだが、返事はない。足音は止まらず、だんだん大きくなる。俺の心臓はバクバクと鳴り、冷や汗が背中を伝った。「帰ろうぜ」と俺が言うと、友人も頷き、慌てて石段を下り始めた。でも、足音は追いかけてくる。タッ、タッ、タッ。霧の中で、誰かがすぐ後ろにいるような気がした。振り返る勇気はなかった。石段を駆け下りる俺たちの足音と、追いかけてくる足音が混ざり合い、頭の中が混乱した。
やっとの思いで鳥居まで戻ったが、霧はさらに濃くなっていた。道がどこに続いているのかもわからない。「どっちだ!?」と友人が叫んだが、俺もパニックで答えられない。その時、すぐ近くで女の声がした。「どこに行くの?」低く、囁くような声。全身の毛が逆立った。誰も女なんていない。俺たちはいるはずだ。なのに、声は確かに聞こえた。友人の一人が「ふざけんなよ!」と叫びながら懐中電灯を振り回したが、光は霧に飲み込まれるだけだ。
「走れ!」と俺が叫び、適当に道を突き進んだ。どれくらい走ったかわからない。息が切れ、足がもつれそうになった頃、霧が急に晴れた。気づけば、俺たちは峠の入口に戻っていた。懐中電灯の光が地面を照らし、俺たちの荒い息遣いだけが響く。足音は消えていた。友人の一人が「何だったんだよ…」と呟いたが、誰も答えられなかった。
その夜、俺たちは実家に帰り、酒を飲んで無理やり笑い合った。でも、誰もあの足音や声について深く話そうとはしなかった。翌日、友人は早々に帰ってしまった。俺は祖父に、峠のことをそれとなく聞いてみた。すると、祖父は静かに言った。「あそこはな、昔、人が消えた場所だ。夜に行っちゃいかんよ」。それ以上の説明はなかった。
あれから20年。俺はもうあの集落には戻っていない。でも、時折、夢の中であの足音を聞く。タッ、タッ、タッ。目を覚ますと、汗で全身がびっしょりだ。あの夜、俺たちは何を追いかけられていたのか。いや、追いかけていたのは本当に「何か」だったのか。今でもわからない。ただ一つ確かなのは、もう二度とあの峠には近づかないということだ。