今から数十年前、山形県の山間にひっそりと佇む小さな町に、一つの学校があった。
古びた木造の校舎は、昼間は子供たちの笑い声で賑わっていたが、夜になるとまるで別の世界のような静寂に包まれた。
その学校には、誰もが口にしない暗黙のルールがあった。
『夜の旧校舎には近づくな』。
この物語は、ある夏の夜に始まる。
主人公の少年は、好奇心旺盛な中学生だった。
彼は級友たちから聞いた噂を確かめようと、仲間三人を誘って夜の学校に忍び込む計画を立てた。
噂の内容はこうだ。
旧校舎の二階、理科室の奥にある古い戸棚を開けると、かつてその学校で起きた悲劇の記憶が蘇るという。
誰も詳細を知らない。
ただ、夜中に校舎を訪れた者が、二度と戻らなかったという話だけが囁かれていた。
少年たちは、懐中電灯を手に、夜の闇に紛れて学校の裏門をくぐった。
夏の夜とはいえ、山間の空気はひんやりと冷たく、虫の声だけが辺りを支配していた。
旧校舎の玄関は、錆びた鎖で閉ざされていたが、少年たちの力で簡単に外れた。
扉を開けると、カビ臭い空気が鼻をついた。
「本当にやるのか?」と一人が囁いたが、少年は笑って「怖気づいたのかよ」と答えた。
その声は、静寂の中で不自然に響いた。
校舎の中は真っ暗だった。
懐中電灯の光が、剥がれた壁紙やひび割れた床を照らし出す。
一階を抜け、軋む階段を上って二階へ向かう。
足音がやけに大きく聞こえた。
理科室は廊下の突き当たりにあった。
ドアは半開きで、まるで誰かが待っているかのようにそこにあった。
少年は一瞬、背筋に冷たいものが走るのを感じたが、仲間たちの視線を背に、強がって部屋に踏み込んだ。
理科室は、埃っぽく、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。
古い実験器具が棚に並び、黒板には誰かが書いたらしい意味不明な数字が残っていた。
少年たちは戸棚を探した。
それは部屋の奥、壁に埋め込まれたような形で存在していた。
木製の戸棚は、塗装が剥げ、触れるとざらついた感触がした。
「開けるぞ」と少年が言った瞬間、背後の仲間の一人が小さく悲鳴を上げた。
「何だよ!」と振り返ると、彼は青ざめた顔で廊下を指さしていた。
「今、誰か歩いてた…」
少年は笑いものだと思ったが、確かに廊下の奥から、かすかな足音が聞こえた。
トン、トン、トン。
ゆっくり、しかし確実に近づいてくる。
少年たちは凍りついた。
懐中電灯の光を廊下に向けても、何も見えない。
ただ、足音だけが続く。
「ふざけんな、誰かいるんだろ!」と少年は叫んだが、声は震えていた。
仲間の一人が「帰ろう」と囁いた瞬間、足音がぴたりと止まった。
静寂が戻ったが、それはまるで嵐の前の静けさのようだった。
少年は意を決して戸棚の取っ手に手をかけた。
その瞬間、背後でガタンという音がした。
振り返ると、理科室のドアがゆっくりと閉まりつつあった。
誰も触っていないのに。
少年は恐怖を押し殺し、戸棚を開けた。
中には、古いノートやガラス瓶が乱雑に詰まっていた。
だが、一番奥に、黒い布に包まれた何かがあった。
少年がそれに手を伸ばした瞬間、懐中電灯が突然消えた。
真っ暗闇の中、仲間たちの悲鳴が響いた。
「何!? 何!?」と叫ぶ声。
少年は慌てて懐中電灯を叩いたが、反応しない。
その時、耳元で誰かの息遣いを感じた。
はぁ、はぁ、という湿った音。
少年は振り返る勇気もなく、ただ固まった。
突然、懐中電灯が再び点灯した。
光の中に、仲間たちの青ざめた顔が浮かんでいた。
だが、一人足りない。
「どこ行った!?」と少年が叫ぶと、残った二人は震えながら「わからない…さっきまでいたのに」と答えた。
その時、戸棚の奥から、かすかな笑い声が聞こえた。
くすくす、という、子供のような声。
少年は思わず後ずさりしたが、背中が何かにぶつかった。
振り返ると、そこには誰もいない。
なのに、冷たい手が肩に触れたような感覚が残った。
少年たちは逃げるように理科室を飛び出した。
廊下を走る中、背後でまた足音が聞こえた。
今度ははっきりと、複数の足音だった。
トントントン、まるで追いかけてくるように。
階段を駆け下り、玄関を飛び出した瞬間、少年は振り返った。
校舎の二階の窓に、ぼんやりとした人影が見えた。
いや、人影というより、ただの黒い塊のようだった。
それが、じっとこちらを見つめている気がした。
少年たちは町に戻り、翌朝、行方不明の仲間を探すため大人たちに助けを求めた。
しかし、学校を調べても、彼の痕跡はどこにもなかった。
ただ、理科室の戸棚が開けっ放しで、黒い布が床に落ちていたという。
その後、少年たちは二度と夜の学校に近づかなかった。
だが、少年は時折、夢の中であの足音を聞くようになった。
トン、トン、トン。
そして、耳元で囁く声。
「お前も来いよ」と。
町の古老たちは言う。
あの旧校舎には、かつて事故で亡くなった子供たちの魂がまだ彷徨っているのだと。
彼らは、夜な夜な校舎を歩き、仲間を求めているのだと。
少年はその話を聞いても、ただ黙ってうつむいた。
あの夜、戸棚で見た黒い布に包まれたものが何だったのか、彼は今も知らない。
ただ一つ確かなのは、あの校舎に足を踏み入れた者は、決してそのままではいられないということだった。
今もその旧校舎は、町の外れにひっそりと佇んでいるという。
昼間はただの古い建物だが、夜になると、かすかな足音が聞こえるそうだ。
トン、トン、トン。
もし、あなたがその町を訪れることがあれば、決して夜の校舎に近づかないことだ。
さもないと、あなたもまた、あの足音に呼ばれてしまうかもしれない。