私はその日、大学からの帰り道で、いつもと違う道を選んだ。愛知県の郊外、田んぼと古い家屋が点在する静かな町。時計はすでに夜の9時を回っていた。2015年の秋、肌寒い風が頬を撫で、遠くの街灯がぼんやりと光る中、妙な違和感が胸をよぎった。
いつもの道は賑やかな商店街を通るが、その日はなぜか、裏手の細い農道を歩いていた。理由は自分でもわからない。ただ、足が自然とそちらへ向かったのだ。道の両側には水を張った田んぼが広がり、時折カエルの鳴き声が響く。だが、その夜は妙に静かだった。虫の声も、風の音も、まるで世界が息を潜めているようだった。
しばらく歩くと、道の先に小さな祠が見えた。苔むした石造りの祠で、周囲には色褪せた赤い布が結ばれている。地元ではよく見かける風景だが、なぜかその祠だけが異様に目立った。まるでそこだけが現実から切り離されているかのように。立ち止まって見つめていると、背筋に冷たいものが走った。祠の奥、暗闇の中で何かが見えた気がした。人の形をした影のようなもの。だが、目を凝らすと何もなかった。
「気のせいか…」と呟き、歩き出そうとした瞬間、背後でかすかな音がした。サラサラ、という、枯れ葉が擦れるような音。振り返っても誰もいない。田んぼの水面が月光を映し、静かに揺れているだけだ。心臓が早鐘を打ち、急いでその場を離れた。だが、歩くほどに音は近づいてくる。サラサラ、サラサラ。まるで誰かが私の後を追ってくるようだった。
農道の突き当たりには、古い木造の家があった。地元では誰も住んでいないと噂される廃屋だ。窓ガラスは割れ、屋根瓦はところどころ崩れ落ちている。私はその家の前を通るのが嫌だったが、他に道はなかった。仕方なく足を速め、目を逸らしながら通り過ぎようとした。だが、その時、家の暗い窓から何かが見えた。白い顔。目だけが異様に大きく、じっと私を見つめている。恐怖で足がすくみ、動けなくなった。次の瞬間、窓の顔が消え、代わりに低い声が聞こえた。
「…ここにいるよ。」
声は私の耳元で囁くように響いた。振り返っても誰もいない。だが、確かに声は聞こえた。パニックになり、走ってその場を離れた。息が上がり、心臓が破裂しそうだった。ようやく町の明かりが見える場所まで逃げてきたとき、ふと気付いた。私の影が、街灯の下で揺れている。だが、影は私の動きと微妙にずれていた。まるで、別の何かが私の後ろに立っているかのように。
その夜、家に帰ってからも恐怖は消えなかった。部屋の隅で物音がするたび、窓の外を誰かが覗いている気がして眠れなかった。翌日、大学の友人にその話をすると、彼は真剣な顔でこう言った。
「あの辺りは昔、変な噂があったよ。田んぼの近くに、別の世界に繋がる場所があるって。祠の近くで夜道を歩くと、向こう側に引き込まれるんだ。」
冗談だと笑い飛ばしたかったが、昨夜の出来事が頭を離れなかった。それから数日後、図書館で古い郷土史を調べていると、気になる記述を見つけた。私の通った農道のあたりは、かつて大きな水害で多くの人が亡くなった場所だった。特に、祠の近くでは、行方不明者が多発していたという。地元の人々は、そこに「境界」が存在すると信じ、祠を建てて鎮魂したのだと。
それ以来、私はあの道を通っていない。だが、時折、夢の中であの夜の光景を見る。祠の影、廃屋の顔、そして私の背後に忍び寄る音。夢の中で、私はいつも振り返ってしまう。そして、そこにはいつも、目だけが異様に大きな「何か」が立っているのだ。
最近、町で新しい噂を耳にした。あの農道で、夜な夜な若い男の姿を見たという人がいるらしい。男は立ち尽くし、じっと田んぼを見つめているという。誰も近づかないし、話しかけても答えない。ただ、遠くから見ると、男の影が妙に揺れているのだそうだ。まるで、別の何かがその背後にいるかのように。
私は今でも思う。あの夜、私が見たものは本当にこの世界のものだったのか。それとも、私は一瞬だけ、境界の向こう側を覗いてしまったのだろうか。答えはわからない。だが、あのサラサラという音だけは、今も耳の奥に残っている。