それは今から数十年前、東京都の片隅にひっそりと佇む古い町での出来事だった。
その町は、戦後の復興期に取り残されたような場所で、細い路地が入り組み、昼間でも薄暗い雰囲気が漂っていた。木造の家々が軋む音と、どこからともなく聞こえる水滴の音が、町全体に不気味な静けさを与えていた。そこに住む人々は、互いに深入りせず、必要以上の会話を避ける傾向があった。まるで何かを見ず知らずのままにしておきたいという暗黙の了解が、町を覆っているようだった。
主人公の少年は、両親と共にその町に引っ越してきたばかりだった。新しい環境に馴染めず、学校でも孤立しがちだった彼にとって、唯一の楽しみは放課後に町を歩き回り、知らない路地を探検することだった。ある日、彼はいつものように路地を進んでいると、見たことのない古い家の前にたどり着いた。その家は他の家々よりも一層古びており、板張りの壁は黒ずみ、窓ガラスは曇って中が見えない。門の前には錆びた郵便受けがあり、なぜかそこにだけ新しい赤い封筒が挟まっていた。
少年は好奇心に駆られ、封筒を手に取った。封筒には何も書かれておらず、ただ不思議なほど鮮やかな赤が目を引いた。中を覗くと、一枚の古い写真が入っていた。写真には、着物を着た若い女が写っていた。彼女の顔は白く、唇だけが異様に赤く、まるで血を塗ったかのようだった。背景はぼやけていたが、どこか見覚えのある風景だった。少年は写真を元に戻し、封筒を郵便受けに差し戻した。だが、その瞬間、背筋に冷たいものが走った。振り返ると誰もいない。なのに、誰かに見られているような感覚が消えなかった。
その夜、少年は奇妙な夢を見た。赤い着物を着た女が、暗い路地に立っている。彼女は少年を見つめ、ゆっくりと近づいてくる。足音はしないのに、彼女の着物の裾が地面を擦る音だけが響く。少年は逃げようとしたが、体が動かない。女がすぐそばまで来ると、彼女の顔が急に歪み、口が裂けるように開いた。その瞬間、少年は叫び声を上げて目を覚ました。汗でびっしょりだった。
翌日、少年は再びその家を訪れた。なぜだか分からないが、写真のことが頭から離れなかった。郵便受けを確認すると、封筒はなくなっていた。代わりに、小さな紙切れが落ちていた。そこには墨で乱暴に書かれた文字があった。「見たな」。少年の心臓は早鐘を打った。彼は紙を握り潰し、家に走って帰った。
それから、少年の周りで不可解なことが起こり始めた。夜になると、窓の外で何かが動く気配がする。カーテンを開けても誰もいないのに、ガラスに映る自分の顔の後ろに、ぼんやりとした影が見える気がした。学校では、誰も少年に近づかなくなった。友達だった子たちまでが、遠巻きに彼を避けるようになった。ある日、少年が教室で教科書を開くと、ページの間に赤い糸が挟まっていた。糸を手に取ると、指先に軽い痛みが走り、血が滲んだ。
少年は恐怖に耐えかね、両親に相談しようとした。だが、両親は仕事で忙しく、彼の話をまともに聞いてくれなかった。「新しい町だから緊張してるだけだよ」と笑い、少年の不安を軽くあしらった。少年は一人でこの恐怖と向き合うしかなかった。
ある晩、少年は再びあの夢を見た。今度は女が少年の部屋に立っていた。彼女の目は真っ黒で、涙のようなものが流れていた。彼女は一言だけ呟いた。「返せ」。少年は飛び起き、電気をつけた。部屋には誰もいない。だが、枕元に赤い封筒が置かれていた。中にはあの写真があった。少年は震える手で写真を手に取った。すると、写真の中の女が動いた気がした。彼女の目が少年を睨みつけ、唇がゆっくりと動いた。「お前も一緒だ」。
少年は叫び声を上げ、写真を床に投げつけた。だが、写真は消えなかった。それどころか、部屋の壁に女の影が映った。影はゆっくりと大きくなり、少年に迫ってくる。少年は逃げようとしたが、足が絡まり、床に倒れた。影が少年を覆った瞬間、部屋が真っ暗になった。
翌朝、少年の両親は彼が部屋にいないことに気づいた。ベッドは乱れ、窓が開け放たれていた。警察が呼ばれ、町中を捜索したが、少年の行方は分からなかった。唯一の手がかりは、部屋に残された赤い封筒だった。中には何も入っていなかったが、封筒の裏に小さな文字でこう書かれていた。「次はお前だ」。
少年の失踪後、町では奇妙な噂が広まった。あの古い家の前を通ると、夜中に赤い着物を着た女が見えるというのだ。彼女は道行く人をじっと見つめ、封筒を差し出す。受け取った者は、数日以内に姿を消すと言われた。町の人々は、その家に近づくことを避け、子供たちには絶対に路地に入らないよう言い聞かせた。
それでも、好奇心に駆られた若者や、噂を信じない者たちが、時折その家を訪れた。彼らの何人かは、赤い封筒を見たと語った。そして、その中の一人もまた、忽然と姿を消した。町はますます静かになり、人々は互いの顔を見ることさえ避けるようになった。まるで、呪いが町全体を飲み込んでいるかのようだった。
今でも、その町の奥深くには、あの古い家が残っているという。誰も住んでいないはずなのに、夜になると窓に灯りがともり、着物の裾が擦れる音が聞こえる。もし、あなたがその町を訪れ、赤い封筒を見つけたら、決して手に取ってはいけない。なぜなら、彼女はまだそこにいて、誰かを待っているからだ。