朽ちゆく神籬の呪詛

実話風

明治の初頭、宮崎の山深い里に、ひっそりと佇む集落があった。そこは、古くから神籬と呼ばれる神聖な森に守られた土地だった。森の奥には、苔むした石祠が鎮座し、村人たちはその祠に祈りを捧げ、豊穣と平穏を願った。しかし、近代化の波が押し寄せ、村の若者たちは都会へと旅立ち、古老たちが守り続けた信仰は次第に色褪せていった。

そんなある夏の夜、村に住む少年、悠斗は、祖父から不思議な話を聞いた。祖父は、酒盃を手に震えながらこう語った。
「悠斗、いいか。神籬の森には、決して足を踏み入れてはならん。あの森はな、神様の領域だ。だが、神様だけじゃねえ。そこには、人の心を喰らうものが潜んでおる……」
悠斗は祖父の言葉を半信半疑で聞き流したが、その夜、奇妙な夢を見た。暗い森の中で、誰かに呼ばれている気がした。声は甘く、どこか懐かしい響きを持っていた。

翌日、悠斗は友人の健太と一緒に、神籬の森の近くで遊んでいた。健太は、村の外から移り住んできたばかりの少年で、古老たちの言い伝えなどまるで信じていなかった。「そんなの、ただの迷信だろ! ほら、俺、森の中に入ってみせるよ!」 健太は笑いながら、森の入り口に足を踏み入れた。悠斗は一瞬ためらったが、友人に置いていかれるのが嫌で、慌てて後を追った。

森の中は、昼間だというのに薄暗く、空気はひんやりと湿っていた。木々の間を縫うように進むうち、ふたりはいつしか道を見失っていた。「おい、健太、戻ろうぜ……なんか変な感じする」 悠斗が震える声で言うと、健太は強がって笑った。「ビビりすぎだろ! ほら、あそこに何かあるぜ!」 健太が指差した先には、古びた石祠が佇んでいた。祠の周りには、まるで時間が止まったかのような静寂が漂い、鳥のさえずりすら聞こえなかった。

健太は興味津々で祠に近づき、苔むした表面を撫でた。「これが神様の家か? なんかショボいな」 その瞬間、祠の奥から低い唸り声のようなものが響いた。悠斗は凍りつき、健太の手を引っ張った。「やめろって! 何かいるよ!」 だが、健太は笑いながら祠の蓋をこじ開けようとした。すると、突然、地面が揺れ、祠の隙間から黒い霧が噴き出した。

霧はまるで生きているかのようにふたりの周りを這い、冷たい指先で肌を撫でるようだった。悠斗の耳元で、囁くような声が聞こえた。「お前も……ここに……留まるがいい……」 声は女のものとも男のものともつかず、まるで頭の中に直接響いてくるようだった。健太は突然叫び声を上げ、地面に膝をついた。「やめろ! 俺の頭の中に入ってくるな!」 彼の目は血走り、まるで何かに取り憑かれたように暴れ始めた。

悠斗は恐怖に駆られながら健太を引っ張り、森の外を目指して走った。だが、どれだけ走っても、森の出口は見つからない。木々の間からは、黒い影がチラチラと動き、まるでふたりを嘲笑うように追いかけてくる。悠斗の心臓は破裂しそうだった。ふと、背後で健太の声が途切れた。振り返ると、健太は立ち尽くし、虚空を見つめていた。「健太! どうしたんだよ!」 悠斗が叫ぶと、健太はゆっくりと顔を上げ、薄く笑った。その笑顔は、まるで健太ではない別の何かのものだった。

「悠斗……お前も、俺みたいになるんだ……」 健太の声は低く、まるで地の底から響くようだった。彼の目からは黒い涙が流れ、地面に落ちると小さな煙を上げた。悠斗は悲鳴を上げ、健太を置いて走り出した。どれだけ走ったのか、時間も距離もわからなくなった頃、ようやく森の外に出た。振り返ると、森はまるで何事もなかったかのように静まり返っていた。

村に戻った悠斗は、祖父に全てを話した。祖父は顔を青ざめ、こう呟いた。「あの祠にはな、昔、村を見守る神様と一緒に、恨みを抱いた魂が封じられていたんだ。だが、信仰が薄れ、封印が弱まっちまった……。健太の魂は、もうあの森のものだ」 悠斗は震えながら尋ねた。「じゃあ、俺はどうなるの?」 祖父は目を伏せ、答えなかった。

それから数日後、健太の姿は村から消えた。村人たちは、彼が都会に逃げ出したのだと言ったが、悠斗にはわかっていた。健太は森に飲み込まれたのだ。そして、毎夜、悠斗の夢にはあの森が現れるようになった。夢の中で、健太が立っている。いや、健太の姿をした何かだ。それは笑いながら、こう囁く。「お前も、俺の仲間になれよ……」

悠斗は眠るのが怖くなり、夜が来るたびに身体が震えた。ある夜、とうとう我慢できなくなり、彼は再び神籬の森へと向かった。祖父の制止を振り切り、懐に塩を握りしめて森に入った。祠の前で、悠斗は叫んだ。「健太を返せ! 俺を連れてくなら連れてけ!」 すると、祠から再び黒い霧が溢れ、悠斗の身体を包んだ。霧の中から、健太の声が聞こえた。「悠斗……お前はまだ、間に合う……逃げろ……」 それは、確かに健太の声だった。だが、その声はすぐに別の笑い声にかき消された。

翌朝、村人たちが森の入り口で悠斗を見つけた時、彼は気を失っていた。手に握りしめていた塩は黒く変色し、まるで何かに焼かれたようだった。悠斗は目を覚ますと、何も覚えていないと言った。だが、それ以来、彼は夜になると窓の外を見つめ、時折、誰かと話すように呟くようになった。村の古老たちは囁き合った。「あの子は、もう半分、森のものだ……」

神籬の森は今もそこにあり、静かに村を見下ろしている。村人たちは決して森に近づかず、子供たちにはこう言い聞かせる。「夜の森には、決して入るな。そこには、お前を待つものたちがいるぞ……」

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