霧の向こうの影

実話風

今から数十年前、宮崎県の山深い集落に、俺の祖父が暮らしていた。集落は小さな川沿いにあり、背後には鬱蒼とした森が広がっていた。祖父は猟師で、山の奥深くまで分け入って獲物を追うのが日常だった。子供の頃、夏になると俺はよくその集落に遊びに行った。祖父の家は古い木造で、夜になるとどこからか聞こえる軋む音が、子供心に少し不気味だった。

ある夏の夕暮れ、俺は祖父の家で夕飯を待っていた。外は薄暗くなり、遠くの山から霧が下りてきていた。祖父は朝から山に入っていて、まだ帰っていなかった。婆ちゃんは台所で鍋をかき混ぜながら、「あの人、遅いねぇ」と呟いた。その声には、どこか落ち着かない響きがあった。

夜が更けるにつれ、霧はますます濃くなった。家の窓から外を見ると、まるで白い壁に閉ざされたようだった。婆ちゃんは心配そうに戸口に立って、時折外を覗いた。「こんな霧、滅多にないよ」と言いながら、彼女の目は何かを見定めるように遠くを見つめていた。

やっと祖父が帰ってきたのは、時計が11時を回った頃だった。玄関の戸が重々しく開き、祖父がずぶ濡れで立っていた。猟銃を肩にかけ、いつもなら獲物をぶら下げているのに、その日は何も持っていなかった。顔は青ざめ、目はどこか虚ろだった。「遅くなってすまん」と一言だけ言い、祖父は黙って奥の部屋に引っ込んだ。

その夜、俺は祖父の部屋の前を通った時、妙な声を聞いた。低く、呻くような声。まるで祖父が誰かと話しているようだったが、婆ちゃんはもう寝ていたし、家に他の人はいなかった。気になって薄く開いた襖の隙間から覗くと、祖父は一人で座り、暗い部屋の中で何かをつぶやいていた。「あそこには…行っちゃいけねぇ…」と繰り返すその声は、震えていた。

翌朝、祖父はいつも通り振る舞っていたが、どこかよそよそしかった。俺が「昨日、山で何があったの?」と聞くと、祖父は一瞬手を止めた。「なんでもねぇ」と笑ったが、その目は笑っていなかった。婆ちゃんも何か知っているようだったが、「子供が気にすることじゃないよ」と話をそらした。

その日から、祖父は山に入るのをやめた。猟銃は納屋の奥にしまい込まれ、埃をかぶった。集落の他の猟師たちも、祖父に何があったのか聞こうとしたが、彼は決して口を開かなかった。ただ、時折、家の縁側で遠くの山を見つめながら、「霧の日は気をつけな」とだけ言うようになった。

数年後、俺が中学生になった頃、祖父は急に亡くなった。心臓が悪かったらしいが、詳しいことは誰も教えてくれなかった。葬式の後、婆ちゃんがぽつりと漏らした。「あの霧の夜、あの人は何か見てきたんだよ。山の奥で、人が見ちゃいけないもんを…」その言葉が、俺の頭から離れなかった。

それからしばらくして、俺は集落の古老から奇妙な話を聞いた。山の奥、霧が濃く立ち込める場所に、昔から「裂け目」と呼ばれる場所があるという。そこは、人が踏み入れてはいけない場所で、霧が濃い日には「向こうの世界」と繋がるとされていた。古老は目を細めて言った。「あの裂け目から出てくるもんは、人間じゃねぇ。姿は見えるが、近づくと消える。だがな、そいつらはお前を見てるんだ…ずっとだ」

俺は半信半疑だったが、祖父のあの夜の顔を思い出すと、背筋が冷たくなった。裂け目なんて、本当にあったのか? 祖父が見たのは、ただの獣だったのか、それとも…。

高校生になったある夏、俺は好奇心に負けて、友達二人を連れて山に入った。祖父が最後に猟に行ったあたりを目指した。霧はなかったが、森は静かすぎて、鳥の声さえ聞こえなかった。奥へ進むにつれ、空気が重くなり、なんだか息苦しくなってきた。友達の一人が「なんか変な感じするな」と呟いた瞬間、木々の間からかすかな音が聞こえた。カサ…カサ…。誰かが歩くような、でも、どこか不自然な音。

俺たちは立ち止まり、音のする方を見た。そこには誰もいなかった。ただ、遠くの木の陰に、ぼんやりとした影のようなものが揺れている気がした。友達は「鹿だろ」と笑ったが、俺の心臓は早鐘を打っていた。あの影は、動くたびに少しずつ形を変えているようだった。人間のようで、でも、どこか歪んでいた。

「帰ろうぜ」と俺が言うと、友達も異論なく踵を返した。だが、帰り道で妙なことに気づいた。さっきまで聞こえていた川の音が、急に遠ざかっていた。まるで、森そのものが動いているような感覚。慌てて走り出した俺たちの背後で、またあの音がした。カサ…カサ…。今度はもっと近く、まるで追いかけてくるようだった。

集落に戻った時、俺たちは汗だくで息を切らしていた。友達は「ビビりすぎだろ」と笑ったが、俺には笑えなかった。あの影が、祖父が見たものと同じだったんじゃないか。そんな考えが頭を離れなかった。

それ以来、俺はあの山には近づいていない。集落の人たちも、霧が濃い日は山に入らないという暗黙のルールがあるらしい。古老の話では、裂け目から出てくるものは、ただ見ているだけじゃない。時折、誰かを「向こう」に連れていくという。祖父があんな風になったのも、裂け目で何かと出会ったからじゃないのか。

今でも、霧の深い夜になると、あの山のことを思い出す。祖父の震える声、木々の間の影、追いかけてくるような足音。もし、あの時、俺たちがもう少し奥に進んでいたら…。考えるだけで、背中に冷たいものが走る。霧の向こうには、何かがいる。いや、何かが待っている。そして、それは俺たちを、ずっと見ているんだ。

集落は今も変わらずそこにある。でも、若い人はほとんどいなくなった。山は静かに佇み、霧が下りる夜には、誰も外に出ない。あの裂け目は、まだどこかにあって、誰かが近づくのを待っているのかもしれない。俺はもう二度と、あの山には行かない。だが、時折、夢の中であの影を見る。ゆっくりと、こちらに近づいてくる影を。そして、そのたびに、祖父の最後の言葉が耳に蘇る。

「あそこには…行っちゃいけねぇ…」

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