明治の頃、高知の山深い集落に、名もなき小さな村があった。そこは、鬱蒼とした杉林に囲まれ、朝霧が谷間に溜まる場所。村人たちは質素に暮らし、夜になると戸を固く閉ざし、外を歩くことは滅多になかった。なぜなら、村の外れに、古びた祠があったからだ。
祠は苔むし、風雨に晒されて傾き、まるで今にも崩れそうな姿だった。村の古老たちは、祠には「何か」が宿っていると言い、決して近づいてはならぬと子々孫々に言い伝えていた。だが、子供たちはその禁を破りがちだった。ある夏の夕暮れ、村の少年たちが肝試しを企てたのだ。
少年たちは三人。年長の少年は好奇心旺盛で、いつも仲間を引っ張るリーダー格だった。もう一人は気弱だが、仲間外れになるのが嫌でついてきた。そして三人目は、どこか影のある子で、普段は口数が少なく、ただじっと周りを見ていることが多かった。この三人が、薄暗い杉林を抜け、祠へと向かった。
道すがら、気弱な少年が震える声で言った。
「本当に大丈夫かな…。おじいちゃんが、祠に近づくと目に見えないものがついてくるって…」
年長の少年は笑い飛ばした。
「そんなの、ただの作り話さ! お前、怖がって逃げ出すつもりか?」
気弱な少年は黙り込み、ただうつむいて歩いた。三人目は一言も発せず、ただじっと前を見つめていた。その目は、まるで何かを見透かしているようだった。
やがて、祠が見えてきた。夕陽が沈み、辺りは薄闇に包まれていた。祠の周囲には異様な静けさが漂い、鳥の声も虫の音も聞こえない。年長の少年は強がって祠に近づき、朽ちかけた木戸に手を伸ばした。
「ほら、なんでもないだろ!」
その瞬間、木戸が軋む音を立ててひとりでに開いた。少年たちは凍りついた。中は真っ暗で、底知れぬ闇が広がっているように見えた。気弱な少年が小さな悲鳴を上げ、後ずさった。
「や、やめよう…! なんか変だよ、ここ…」
だが、年長の少年は意地になっていた。
「逃げるなよ! ちょっと中を見るだけだ!」
彼は一歩踏み出し、祠の中を覗き込んだ。その刹那、かすかな囁き声が聞こえた。
「…おいで…おいで…」
少年はハッとして振り返ったが、仲間たちには何も聞こえていないようだった。三人目の少年だけが、じっと祠の闇を見つめ、微かに唇を動かしていた。まるで、誰かと会話しているかのように。
その夜、少年たちは村に戻ったが、年長の少年の様子がおかしかった。普段は陽気な彼が、口を閉ざし、時折虚空を睨むようになった。気弱な少年は怯えきって、親に全てを話した。村の大人たちは顔を青ざめ、少年たちを祠に近づけたことを激しく叱った。だが、三人目の少年はただ黙って座り、まるで何も起こらなかったかのように振る舞っていた。
数日後、年長の少年の異変はさらに顕著になった。夜中になると、突然起き上がり、家の外をじっと見つめるのだ。家族が尋ねても、彼は答えず、ただこう呟くだけだった。
「呼んでる…祠が…また行かなきゃ…」
家族は恐怖に駆られ、村の神主に相談した。神主は祠に詣で、長い祈祷を行ったが、その顔は重苦しかった。
「この祠には、古いものが棲んでいる。人の心の隙に入り込むものだ。少年の心は、すでにその手に握られているかもしれない…」
その言葉通り、少年の様子は悪化していった。ある晩、彼は家族の目を盗んで家を抜け出し、闇の中を祠へと向かった。家族が気づいた時には、すでに少年の姿はなかった。村人たちは総出で捜索したが、祠の周囲に少年の足跡が残っているだけで、どこにも見つからなかった。
気弱な少年は、恐怖と罪悪感に苛まれ、夜も眠れなくなった。彼は三人目の少年に相談したが、その少年はただ静かに微笑み、こう言った。
「彼は選ばれたんだよ。祠が欲したから、連れて行かれたんだ。」
その言葉に、気弱な少年は背筋が凍った。三人目の少年の目は、まるで祠の闇そのもののように深く、冷たかった。
それから月日が流れ、村では祠の話はさらに恐ろしい伝説となった。年長の少年は二度と戻らず、気弱な少年は心を病み、村を出て行った。そして三人目の少年は、まるで何事もなかったかのように村で暮らし続けた。だが、村人たちは気づいていた。彼が夜な夜な祠の近くを歩き、闇に向かって囁いていることを。まるで、祠と彼が一つであるかのように。
やがて、祠は完全に朽ち果て、ただの石の塊と化した。村人たちは安堵したが、同時に新たな恐怖を抱いた。祠がなくなった今、あの「何か」はどこへ行ったのか。村のどこかで、誰かの心の中で、静かに息を潜めているのではないか。
今も、高知の山奥を歩くとき、ふと耳元で囁き声が聞こえることがあるという。それは、朽ちた祠の記憶なのか、それとも、未だ彷徨う「何か」の声なのか。誰も知らない。ただ一つ確かなのは、夜の山道で振り返ってはいけないということだ。そこには、決して見てはいけないものが、じっとあなたを見つめているかもしれない。
村の古老がかつて言った言葉が、今も山間に響く。
「祠はなくなっても、そいつは消えん。あれは、人の心に棲むんじゃ…」