数十年前、ある秋の夜。山深い集落に暮らす男は、いつものように薪を手に家路についていた。
その日は朝から妙な霧が立ち込めていた。普段なら鳥のさえずりが響く山道も、やけに静かで、足音だけがこだまする。男は首を振って気を取り直し、歩を進めた。集落が見えるはずの場所に差し掛かった時、目の前が白く濁り、霧が一層濃くなった。見慣れた道がどこか歪んで見える。嫌な予感が胸を締め付けたが、家に残した妻子の顔を思い出し、男は足を速めた。
やがて、集落の入り口を示す古い鳥居が見えた。だが、その下に立つ影があった。ぼんやりとした人影が、霧の中で揺れている。男は目を凝らしたが、顔は見えない。ただ、そこにいるだけで空気が重く、冷たく感じられた。「誰だ?」と声をかけると、影はスッと消えた。不気味さに背筋が凍る思いだったが、男は気を取り直して鳥居をくぐった。
集落に足を踏み入れると、異変に気付いた。家々の灯りが一つも見えない。いつもなら夕餉の匂いが漂い、子供たちの笑い声が聞こえる時間だ。だが、静寂が全てを包んでいる。男は急いで自宅へと向かった。扉を開けると、妻子の姿はなく、囲炉裏の火も消えていた。テーブルには朝の食事がそのまま残り、時間が止まったかのようだった。
「どこへ行ったんだ?」男は叫び、近隣の家々を回った。だが、どの家も同じだった。人の気配がなく、ただ静かに佇んでいる。パニックに駆られた男は、山の奥へと続く細い道に目をやった。そこは村人たちが「行ってはいけない」と口を揃える場所。古くから言い伝えられる異界への入り口だ。妻子がそこへ行ったとは思いたくなかったが、他に手がかりはなかった。
男は意を決し、懐から小さな護符を取り出して握り潰すと、山道へ踏み出した。霧はさらに濃くなり、木々の間を縫うように進むうち、方向感覚が狂い始めた。どれだけ歩いたかわからない。ふと、遠くから微かな歌声が聞こえてきた。子供の声とも大人の声ともつかない、不協和音のような旋律。男の耳にまとわりつくその音は、どこか懐かしくもあり、悍ましくもあった。
歌声に導かれるように進むと、開けた場所に出た。そこには見たこともない風景が広がっていた。歪んだ木々が空を覆い、地面には赤黒い苔がびっしりと生えている。そして、その中央に村人たちがいた。妻子もそこにいたが、様子がおかしい。皆、無表情で立ち尽くし、口だけが歌を紡いでいる。目が合った瞬間、妻子がこちらを見た。だが、その瞳は虚ろで、黒い穴のように感情が抜け落ちていた。
「お前ら、何だ!?」男は叫んだが、返事はない。ただ、歌声が大きくなり、足元から冷たい何かが這い上がってくる感覚に襲われた。逃げようとした瞬間、背後から無数の手が伸びてきた。振り返ると、そこには影のような存在が無数に浮かんでいた。顔のない影が、男の体を掴み、引きずり込む。必死に抵抗したが、力は吸い取られるように抜けていった。
次の瞬間、男の意識は途切れた。目を開けると、そこは見慣れた山道だった。霧は晴れ、鳥の声が遠くに聞こえる。だが、集落へ戻っても誰もいない。家々は朽ち果て、まるで何十年も放置されたかのようだった。男は呆然と立ち尽くした。妻子も、村人も、忽然と消えていた。
それからというもの、男は山を彷徨い続けた。人々は言う。あの集落は、ある夜を境に忽然と消え、訪れる者を異界へと誘うのだと。男の姿を見たという者もいるが、その目は虚ろで、口からは不気味な歌が漏れていたという。
今でも、山奥に足を踏み入れると、濃い霧の中で歌声が聞こえることがある。好奇心から近づく者もいるが、二度と戻った者はいない。異界の霧は、静かに獲物を待ち続けている。