異界の囁きが響き合う夜

ホラー

青森の山奥にひっそりと佇む小さな集落。そこに暮らす人々は、古くから続く奇妙な言い伝えを守り続けていた。それは、特定の夜に山から聞こえてくる「声」に決して耳を傾けてはいけないというものだった。声は甘く、懐かしく、まるで亡魂が呼びかけるかのように響き渡るのだという。しかし、その声に誘われ山へ足を踏み入れた者は、二度と帰ってこない。

ある夏の終わり、都会からこの集落に移り住んだばかりの若者がいた。彼は都会の喧騒に疲れ、自然の中で静かに暮らしたいと願ってこの地を選んだ。集落の人々は温かく迎え入れてくれたが、彼にはどこかよそよそしい空気を感じさせた。特に、年老いた隣人が「夜の山には近づくな」と繰り返し忠告する姿には、不思議なほど深刻な影が宿っていた。

その夜、若者は眠れずにいた。窓の外から、かすかな風の音と共に、何か聞き慣れない響きが混じっていることに気づいた。それは、遠くから聞こえてくるような、人の声とも獣の唸りともつかぬ不気味な音だった。最初は耳を疑ったが、次第にその音ははっきりと形を成し、彼の名を呼んでいるようにさえ感じられた。「おいで…こっちへ…」甘い囁きが、夜の静寂を切り裂く。

好奇心と恐怖が交錯する中、彼はベッドから起き上がり、窓辺に近づいた。外を見ると、月明かりに照らされた山の稜線がぼんやりと浮かんでいる。その向こうから声は響いてくるようだった。隣人の忠告が頭をよぎったが、なぜか体が勝手に動き、靴を履いて外へ出てしまった。冷たい夜風が頬を撫で、木々のざわめきが耳に届く。そして、声はさらに鮮明に、切実になって彼を誘う。「こっちだよ…早く…」

集落の外れまで来たとき、彼は立ち止まった。そこには古びた鳥居が立っており、その先は鬱蒼とした森へと続く細い道が伸びている。普段なら見過ごしてしまうような場所だが、この夜は異様に目を引いた。鳥居の奥から漂う冷気が、彼の全身を包み込む。声はそこから聞こえてくるようだった。足が震え、心臓が早鐘を打つ。それでも、彼は一歩踏み出した。

森の中は、昼間とはまるで別世界だった。月光が木々の隙間から差し込むものの、足元は暗く、どこか湿った空気が漂っている。声はさらに近づき、今度は複数の響きが重なり合って聞こえてきた。「おいで…一緒に…ずっと…」その言葉に混じるかすかな笑い声が、彼の背筋を凍らせた。振り返ろうとした瞬間、足が何かに絡まり、転倒してしまう。見下ろすと、そこには黒々とした蔦のようなものが蠢いており、ゆっくりと彼の足首を締め上げていた。

必死にもがく彼だったが、蔦は力を増すばかり。やがて、目の前に影が現れた。それは人の形をしていたが、顔は闇に溶け込んで見えない。影は静かに手を伸ばし、彼の頬に触れた。その冷たさに息を呑むと同時に、頭の中に直接響くような声が聞こえた。「ようやく会えた…ずっと待っていたよ…」その言葉に、なぜか懐かしさがこみ上げ、同時に底知れぬ恐怖が全身を支配した。

影が彼を引き寄せようとした瞬間、遠くから別の音が聞こえてきた。それは、集落の誰かが鳴らす太鼓のような音だった。影が一瞬怯んだ隙に、蔦の力が弱まり、彼は這うようにして逃げ出した。森の出口まで辿り着いたとき、振り返ると影は消えていたが、声だけがまだ耳に残っていた。「また来てね…待ってるから…」

集落に戻った彼は、隣人に全てを話した。老人は深いため息をつき、こう語った。「あれは異界の住人だ。昔からこの山に棲み、迷い込んだ者を連れ去ってきた。太鼓の音は、先祖が編み出した唯一の対抗策なんだ」それ以来、彼は夜に外へ出ることはなくなったが、静かな夜になると、遠くからあの声が聞こえてくる気がしてならなかった。

それから数年が経ち、彼は集落に馴染み、平穏な日々を送っていた。だが、ある晩、再びあの声が聞こえてきた。今度は以前よりも近く、はっきりと。そして、窓の外を見た彼は凍りついた。そこには、かつて森で見た影が立っており、じっと彼を見つめていた。影の口元がゆっくりと開き、囁きが直接脳内に響く。「約束したよね…一緒にいるって…」

翌朝、彼の家を訪ねた隣人は、開け放たれた窓と、空っぽの部屋を目にした。どこにも彼の姿はなく、ただ、山の方から微かに聞こえる笑い声だけが残されていた。それ以来、集落では彼の話を口にすることはタブーとされ、夜の山への恐怖はさらに深まったという。

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