数年前、私は友人と共に兵庫県の山奥にある小さな集落を訪れていた。そこは古い神社が有名で、夏の終わりに行われる祭りに参加するのが目的だった。昼間は穏やかで、住民たちの笑顔が印象的な場所だったが、夜になると空気が一変した。
その日は祭りの最終日で、神社での儀式が終わり、私たちは車で帰路についていた。時刻はすでに深夜を回り、山道を照らすのは車のヘッドライトだけ。カーブの多い細い道を慎重に運転していると、助手席の友人が突然、「何か聞こえない?」と呟いた。私は首を振ったが、彼は真剣な表情で窓の外を見つめていた。
しばらくすると、私にも確かに聞こえてきた。遠くから響く、かすかな泣き声だ。最初は動物の鳴き声かと思ったが、近づくにつれてそれが人の声だと気づいた。女の声だった。悲しげで、切なげで、どこか恨みが込められているような声。友人は「誰か助けを求めてるんじゃないか?」と言い、私に車を停めるよう促した。
私は渋々路肩に車を寄せ、エンジンを切った。すると、泣き声が一層はっきりと耳に届いた。それは前方からではなく、車を囲むように四方から聞こえてくるようだった。友人は懐中電灯を手に持つと、「ちょっと見てくる」とドアを開けた。私は「危ないからやめろ」と止めたが、彼は聞かず、闇の中へと消えていった。
数分が経ち、彼が戻らないことに焦りを感じ始めた頃、泣き声が急に大きくなった。それはもう、耳をつんざくような叫び声に変わっていた。私は恐怖で体が硬直し、窓の外を見ることができなかった。すると、助手席側の窓を何かで叩く音がした。恐る恐る目をやると、そこには友人の顔があった。しかし、その表情が異様だった。目が真っ白で、口が不自然に歪んでいる。私は叫び声を上げ、慌ててエンジンをかけた。
車を発進させると、後部座席から低い笑い声が聞こえた。振り返る勇気はなく、ただアクセルを踏み込んだ。ミラー越しに見えたのは、友人が座っているはずのない後部座席に、長い髪の女が座っている姿だった。彼女は首を不自然に傾げ、私をじっと見つめていた。その目は真っ黒で、まるで底のない井戸のようだった。
どれだけ走ったかわからないが、やっと山道を抜け、街の明かりが見えた時、後部座席の気配が消えていた。友人はどこにもおらず、警察に連絡したが、彼はその後も見つからなかった。後日、地元の人にその話をすると、「あの山には昔、子を亡くした女が彷徨っていて、泣き声で人を誘うって噂がある」と教えてくれた。私は二度とその場所には近づいていない。
それからしばらくして、私は奇妙な夢を見るようになった。暗い山道を歩いていると、遠くから泣き声が聞こえてくる。振り返ると、友人が立っていて、ゆっくりと近づいてくる。でも、その顔はあの夜の白目で歪んだ顔だった。そして、彼の後ろにはあの長い髪の女が立っている。目を覚ますたびに、心臓が止まりそうな恐怖に襲われる。
今でもあの泣き声が耳に残っている。あの山道を通るたびに、どこかで彼女が見ているような気がしてならない。