薄闇に響く足音の謎

心霊現象

東京の片隅、路地裏にひっそりと佇む古いアパートがあった。築数十年のその建物は、コンクリートの壁にひびが入り、錆びた鉄階段が軋むような場所だった。そこに住む若い女性は、夜になると決まって奇妙な音を耳にするようになった。

最初は風の音か、あるいは隣の住人の生活音だろうと気に留めていなかった。だが、ある晩、彼女が布団に横になった瞬間、静寂を切り裂くような「タン、タン」という足音が響き始めた。音はアパートの外階段を上ってくるように聞こえた。彼女は息を潜め、耳を澄ませた。足音は一歩、また一歩と近づき、彼女の部屋の前でピタリと止まった。

ドアの向こうに誰かが立っている。そんな確信が彼女を襲った。だが、勇気を振り絞って覗き穴から外を見ても、そこには誰もいない。ただ、薄暗い廊下の電灯がチカチカと点滅しているだけだった。不思議に思いながらも、彼女は眠りにつこうとした。ところがその夜、夢の中で彼女は奇妙な光景を見た。黒い影が階段を上り、彼女の部屋の前で立ち止まる。そして、影はゆっくりとドアノブに手を伸ばすのだ。

翌朝、目覚めた彼女は夢の記憶にゾッとした。だが、それだけでは終わらなかった。その日から、足音は毎晩のように聞こえるようになった。時には「タン、タン」と規則正しく、時には乱れたリズムで階段を上ってくる。彼女は恐怖に耐えかね、管理人に相談した。だが、管理人は首を振ってこう言った。「このアパートでそんな音を聞いたなんて話は初めてだよ。気のせいじゃないか?」

管理人の言葉に納得がいかず、彼女は友人を呼び、一緒に夜を過ごすことにした。友人もまた、その足音を確かに聞いた。「何かいるよ、ここに」と震える声で呟いた友人の顔は真っ青だった。二人はその夜、眠れぬまま朝を迎えた。友人はすぐに引っ越すことを勧めたが、彼女にはそんな余裕はなかった。

ある雨の降る夜、足音がまた聞こえてきた。だがその日はいつもと違った。足音が部屋の前で止まった後、ドアノブがガチャガチャと動く音がしたのだ。彼女は飛び起き、心臓が早鐘を打つのを感じた。ドアにはしっかりと鍵がかかっているはずなのに、ノブが回る音は止まらない。恐怖で声も出せず、彼女は布団の中で体を縮こませた。すると、突然、音が止んだ。静寂が戻り、彼女は恐る恐るドアに近づいた。覗き穴から外を見ると、やはり誰もいない。だが、廊下の床に濡れた足跡が点々と続いているのが見えた。

その日から、彼女は毎晩のように悪夢にうなされるようになった。夢の中では、黒い影が部屋の中に入り込み、彼女のベッドのそばに立つ。影は顔を持たず、ただじっと彼女を見つめている。目が覚めると、部屋の中には何もないはずなのに、どこか冷たい空気が漂っている気がした。

ある日、彼女は近所に住む老婆からこのアパートの過去を聞いた。「昔ね、ここで悲しいことがあったんだよ」と老婆は遠い目をして語り始めた。「若い男がね、恋人に裏切られて、この階段で命を絶ったんだ。その日から、夜になると足音が聞こえるって噂がね…」。彼女は背筋が凍る思いだった。老婆の話が本当なら、あの足音は死者のものなのかもしれない。

それから数日後、彼女は限界を迎えた。足音が聞こえるたび、ドアノブが動くたび、彼女の精神はすり減っていった。ある夜、とうとう我慢できず、彼女は部屋を飛び出した。雨の中、近くの公園まで走り、やっと落ち着いたところで振り返った。すると、アパートの窓からこちらを見下ろす黒い影が見えた気がした。影は動かず、ただじっと彼女を見つめていた。

彼女はその後、すぐに引っ越しを決意した。荷物をまとめ、新しい住処に移った後も、あの足音と影の記憶は彼女を離さなかった。新しい部屋で眠るたび、耳元で「タン、タン」と響く音が聞こえる気がして飛び起きることが何度もあった。だが、それはもう幻聴だったのか、それとも本当に何か彼女を追いかけてきたのか、確かめる術はなかった。

それから数年が経ち、彼女はあの出来事を誰かに話すことはほとんどなくなった。ただ、雨の夜になると、どこからか聞こえてくるような足音に、未だに心がざわつくのだ。そして今でも、あの古いアパートがまだそこに建っているのか、彼女は知らない。だが、もし誰かがそこに住むなら、同じ足音を聞くことになるのだろうか。そんなことを考えるたび、彼女は言いようのない恐怖に襲われるのだった。

タイトルとURLをコピーしました