青森県の山奥にひっそりと佇む小さな集落。そこは、深い森と切り立った崖に囲まれた場所で、数年前、私はその地に足を踏み入れた。仕事の関係で山間部の調査を任され、半ば強引に派遣されたのだ。集落に着いたのは秋も深まる頃で、空は灰色に染まり、冷たい風が木々を揺らしていた。
集落には古びた木造家屋が十数軒ほど点在し、住民は老人が中心だった。都会の喧騒とは無縁の静けさが漂い、どこか時間が止まったような感覚があった。調査を進めるため、私は地元の古老に話を聞くことにした。彼は痩せこけた体に皺だらけの顔を持ち、目の奥に得体の知れない光を宿していた。
「この辺りは昔から霧が深い。気をつけなよ」と彼は低い声で呟いた。私はその言葉を軽く聞き流し、仕事に集中しようとしたが、その夜から奇妙な出来事が始まった。
最初の異変は、宿泊先の民家の窓から見えた風景だった。夜が更けるにつれ、集落を覆う霧が異様に濃くなり、まるで生き物のようにうごめいているように見えた。窓ガラスに手を当てると、冷たさを通り越して何か湿ったものが指先にまとわりつく感覚があった。私は慌てて手を引っ込め、カーテンを閉めたが、心臓の鼓動が収まらなかった。
翌朝、霧はさらに濃密になり、家の外は数メートル先も見えないほどだった。調査のために外に出たが、道に迷い、気づけば集落の外れにある古い祠の前に立っていた。祠は苔むし、木の根が絡みついており、どこか不気味な雰囲気を放っていた。そこに近づくと、かすかに鈴の音が聞こえ、風もないのに木々がざわめき始めた。
その時、後ろから誰かに肩を掴まれた気がして振り返ったが、誰もいない。ただ、霧の中にぼんやりとした人影が揺れているように見えた。私は恐怖に駆られ、急いで民家に戻った。しかし、戻ったはずの民家の中は、どこか様子が違っていた。家具の配置は変わらないのに、空気が重く、壁には見覚えのない染みが広がっていた。
夜が訪れると、異変はさらに顕著になった。部屋の隅からかすかな囁き声が聞こえ始め、それが徐々に大きくなっていく。「帰れ…帰れ…」と繰り返す声は、複数の人間が重なったような不協和音だった。私は耳を塞いだが、声は頭の中に直接響いてくるようだった。眠れぬまま朝を迎えたが、霧は一向に晴れず、集落全体が異様な静寂に包まれていた。
三日目、私は集落の住民に助けを求めようと外に出た。しかし、家々を訪ねても誰も応答しない。扉を叩いても、窓を覗いても、人気は全く感じられなかった。やっと見つけた一人の老婆は、私を見るなり目を大きく見開き、「お前、連れてかれたのか」と震える声で呟いた。その言葉の意味を問う前に、彼女は家の中に引っ込んでしまった。
その夜、ついに耐えきれなくなった私は荷物をまとめ、集落を脱出しようと決意した。だが、霧の中を進むうちに方向感覚を失い、気づけばまたあの祠の前に戻っていた。鈴の音が再び響き、今度ははっきりと人影が霧の中から現れた。それはぼろぼろの着物をまとった女で、顔は白く塗られ、目だけが異様に黒く光っていた。彼女は私を見つめ、無言で近づいてくる。
足がすくみ、動けなくなった私の耳元で、彼女が囁いた。「お前もここに残れ」。その瞬間、背後から無数の手が私を引きずり、霧の奥へと呑み込んでいった。意識が遠のく中、遠くで古老の声が聞こえた気がした。「あそこは、もうこの世じゃないんだよ」
目が覚めた時、私はなぜか集落の入り口に倒れていた。霧は消え、太陽が昇っていたが、集落には誰もおらず、家々は廃墟と化していた。私の荷物には、祠の前で撮ったはずのない写真が紛れ込んでいた。そこには、白い顔の女と、私自身が並んで立っている姿が映っていた。
それ以来、私はあの集落のことを口にしない。だが、時折、濃い霧が立ち込める夜になると、耳元で囁き声が聞こえ、背後に誰かの気配を感じる。あの異界の霧は、私を完全に手放してはくれなかったようだ。