山深い宮城県のとある集落に、数年前、奇妙な出来事が起こったと語り継がれている。
その集落は、鬱蒼とした杉林に囲まれ、外部との繋がりが薄い場所だった。そこに住む人々は、古くから山の神を敬い、決して足を踏み入れてはいけないとされる禁足地を守ってきた。しかし、ある夏の終わり、集落に若い男が引っ越してきた。彼は都会育ちで、伝統や迷信を鼻で笑うような性格だった。名前は誰も覚えていない。ただ、皆が彼を「よそ者」と呼んでいた。
よそ者は、集落の老人たちが語る禁足地の話を聞いて、「そんな時代遅れの話に縛られるなんて馬鹿らしい」と言い放った。そして、ある日、酒に酔った勢いで禁足地に足を踏み入れた。集落の若者数人が止めたが、彼は笑いものにするように振り払い、森の奥へと消えていった。その夜、彼は帰ってこなかった。
翌朝、集落の男たちが捜索に出た。禁足地の入り口近くで、彼の靴が片方だけ落ちているのが見つかった。そこから先は足跡すらなく、まるで忽然と姿を消したかのようだった。捜索は数日続いたが、手がかりは見つからず、皆は「山の神の怒りに触れたのだ」と囁き合った。
それから数週間後、よそ者の家に異変が起きた。家の裏に置かれていた古い姿見が、夜な夜な軋む音を立て始めたのだ。最初は風のせいだと誰も気にしなかったが、ある晩、近所の女がその鏡を覗き込んでしまった。彼女は突然、血の気を失い、「あいつがいる」と震えながら呟いた。彼女の話では、鏡の中に映ったのは彼女自身の姿ではなく、よそ者の顔だったという。目は虚ろで、口元が不気味に歪んでいた。
その噂は瞬く間に集落中に広がった。鏡を見た者は、次々と奇妙な体験を口にするようになった。ある男は、夜中に鏡の前を通った時、背後から冷たい手が肩に触れたと感じた。また別の女は、鏡の表面に自分の顔と共に、よそ者の姿が重なるように映り、彼がじっとこちらを見つめているのを見たと言った。どの話にも共通していたのは、鏡に映るよそ者が、まるで生きているかのように動くということだった。
集落の古老たちは、これは呪いだと確信した。禁足地に踏み入れた罰が、よそ者を通じて集落に降りかかっているのだと。そして、鏡を壊せば呪いが解けると提案した。しかし、誰もその鏡に触れようとはしなかった。なぜなら、鏡の前に立つと、背筋が凍るような視線を感じ、耳元でかすかな囁きが聞こえるからだ。それは、よそ者の声だった。「俺を置いていったな」と。
ある夜、集落で最も勇敢だとされる猟師が、意を決して鏡を壊そうとした。彼は斧を手に家の裏に近づいたが、その直後、けたたましい叫び声が響き渡った。駆けつけた者たちが目にしたのは、斧を握り潰された猟師の手と、鏡の前に立ち尽くす彼の姿だった。猟師は目を血走らせ、「鏡の中から手が伸びてきた」と叫び、その場に崩れ落ちた。翌朝、彼は高熱にうなされ、数日後に息を引き取った。
その事件を境に、鏡の周囲には誰も近づかなくなった。だが、呪いは終わらなかった。集落の子供たちが、夜道でよそ者の姿を見たと言い始めたのだ。薄暗い杉林の奥に立ち尽くし、じっとこちらを見つめるその姿は、まるで鏡から抜け出してきたかのようだった。そして、見られた子供たちは次々に病に倒れ、衰弱していった。
集落の人々は恐怖に支配され、ついに神主を呼ぶことにした。神主は鏡を前に長い祈りを捧げ、呪いを封じるための儀式を行った。すると、その夜、鏡が突然ひび割れ、真っ二つに砕けた。集落中が安堵のため息をついたのも束の間、翌朝、驚くべきことが起きた。鏡のかけらが消えていたのだ。まるで誰かに持ち去られたかのように。
それからというもの、集落では鏡に関する話題はタブーとなった。だが、夜になると、どこからともなく軋む音が聞こえてくるという。そして、集落を訪れた旅人がこんな話を漏らしたことがある。「山道で古い鏡を見た。割れてるのに、映るものがあってさ……笑ってる男の顔が、こっちを見てたよ」。
今でも、その集落のどこかに、呪われた鏡がひっそりと存在しているのかもしれない。そして、禁足地の闇に飲み込まれたよそ者の魂が、鏡を通じて誰かを待ち続けているのかもしれない。あなたがもし、山深い宮城県の集落を訪れることがあれば、決して古い鏡を覗き込まないように。そこには、あなたの知らない顔が映っているかもしれないから。