闇に潜む異形の足音

妖怪

明治の頃、栃木県の山深い村に住む男がいた。名は特に記すまい。彼は猟師として生計を立て、家族と共に慎ましく暮らしていた。村は山に囲まれ、昼なお暗い森が広がり、古くから妖怪の噂が絶えなかった。だが、男はそんな話を笑いものとし、森の奥深くへ分け入ることを恐れなかった。

ある秋の夕暮れ、男は猟に出かけ、いつものように獲物を追って森を歩いていた。日はすでに西に傾き、木々の間を抜ける風が冷たく頬を刺した。すると、遠くから奇妙な音が聞こえてきた。カタカタ、カタカタ。木の枝が擦れる音とも、獣の足音とも異なる、不気味な響きだった。男は耳を澄ませたが、音は近づいてくる様子はない。気味が悪いと思いながらも、猟を続けることにした。

その夜、男は小さな鹿を仕留め、肩に担いで家路についた。森の中は月明かりに照らされ、木々の影が長く地面に伸びていた。すると、再びあの音が響き始めた。カタカタ、カタカタ。今度は明らかに近かった。男は足を止め、周囲を見回した。だが、暗闇の中には何も見えない。風が止まり、森は異様な静寂に包まれた。背筋に冷たいものが走り、男は初めて恐怖を感じた。

「誰かいるのか?」

声をかけたが、返事はない。代わりに、音が一層激しくなった。カタカタ、カタカタカタ。まるで何かがこちらに向かってくるようだった。男は鹿を地面に下ろし、猟銃を構えた。闇の中、かすかに動く影が見えた気がした。細長い腕のようなもの、そして異様に曲がった足。人間ではない。男の心臓は早鐘を打ち、汗が額を伝った。

次の瞬間、影が消えた。音も止まり、再び静寂が訪れた。男は息を整え、錯覚だったのかと自分を納得させようとした。だが、鹿を担ぎ直そうとしたとき、背後から冷たい息が首筋に吹きかかった。振り返ると、そこには異形のものが立っていた。

それは人の形をしていたが、顔は異様に平たく、目は黒い穴のように窪み、口は裂けたように大きく開いていた。両腕は長く地面に届き、爪は鋭く曲がっていた。そして足――足は逆関節で、膝が後ろに曲がり、歩くたびにカタカタと音を立てていた。妖怪だった。村の古老が語っていた「逆足のもの」に違いなかった。

男は叫び声を上げ、猟銃を撃った。銃声が森に響き渡り、火薬の匂いが鼻をついた。だが、弾は妖怪を貫くことなく、ただ闇に吸い込まれた。妖怪は低く唸り、口から黒い霧のようなものを吐き出した。その霧が男に触れた瞬間、全身が凍りつくような寒さに襲われた。足が動かない。逃げられない。妖怪はゆっくりと近づき、カタカタと足音を響かせた。

「助けてくれ!」

男は叫んだが、声は森に飲み込まれ、誰にも届かなかった。妖怪の手が男の肩に触れた瞬間、視界が暗転した。

翌朝、村の男たちが森へ様子を見に行った。そこには鹿の死骸と、猟銃だけが残されていた。男の姿はどこにもなかった。足跡すら残っていなかったが、地面には奇妙な引っ搔き傷が無数に刻まれていた。村人たちは恐れおののき、その森には二度と近づかなかった。

それから数年後、別の猟師が森の奥で似たような体験をした。カタカタという音を聞き、異形の影を見たという。以来、村では「逆足のもの」が人を攫うという噂が広まり、夜の森に近づく者は誰もいなくなった。男の家族は彼の帰りを待ち続けたが、結局その姿を見ることはなかった。

ある冬の夜、男の妻が家の外で異音を聞いた。カタカタ、カタカタ。窓の外を見ると、雪の上に逆関節の足跡が続いていた。そして、遠くの闇の中から、低い唸り声が響いてきた。妻は子供を抱きしめ、目を閉じた。翌朝、足跡は消えていたが、彼女はその日から口をきかなくなった。

村の古老は言う。「あれは山の怒りだ。森を荒らす者に祟る妖怪だ」と。明治の時代が終わりを迎えても、その噂は途絶えず、今なお栃木の山奥には「逆足のもの」が潜んでいると囁かれている。カタカタという足音を聞いた者は、二度と帰ってこないのだと。

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