数十年前、福井県の山深い集落に暮らす人々は、夜になると決して外に出なかった。
その理由は、村の古老たちが語り継ぐ恐ろしい言い伝えにあった。山の奥に棲む「何か」が、闇に紛れて人を攫い、生きたまま喰らうというのだ。子供たちはその話を聞いて怯え、大人たちは半信半疑ながらも、夜の外出を避ける習慣が根付いていた。
その集落に住む少年、タケシは好奇心旺盛で、友達と共に言い伝えを笑いものにしていた。ある夏の夜、蒸し暑さに耐えかねたタケシは、仲間三人を誘って山の入り口へと向かった。「化け物なんて見たいもんだ」と軽口を叩きながら、懐中電灯を手に雑木林を進んだ。
最初は笑い声が響き合い、虫の鳴き声に混じって賑やかだった。しかし、森の奥へ進むにつれ、空気が重くなり、風すら止んだように感じられた。仲間の一人、ユウジが「何か変だよ」と呟いた瞬間、遠くから低く唸るような音が聞こえてきた。ゴオオオ……。それは風でも獣でもない、不気味で異質な響きだった。
タケシは笑ってごまかそうとしたが、声が震えていた。「熊でもいるんだろ」と強がりつつも、足は自然と後ずさりしていた。すると、背後の茂みがガサリと揺れ、四人は一斉に振り返った。そこには何もなかった。いや、何かが見えた気がした。暗闇の中で蠢く、人の形を歪ませたような影が。
「帰ろうぜ!」ユウジが叫び、皆が慌てて踵を返した瞬間、背後から轟音が響いた。ドオオオン!地面が揺れ、木々が軋むほどの衝撃だった。四人は転がるように逃げ出したが、タケシはふと気づいた。仲間の数が一人足りない。振り返ると、最後尾を走っていたケンジの姿が消えていた。
「ケンジ!どこだよ!」タケシが叫ぶと、遠くから微かな悲鳴が聞こえた。助けに戻ろうとするタケシを、他の二人が必死に止めた。「ダメだ!あれに捕まるぞ!」ユウジの目には涙が浮かんでいた。仕方なく三人は村へと逃げ帰り、大人たちに助けを求めた。
翌朝、村の男たちが山へ捜索に向かった。しかし、ケンジの姿は見つからず、ただ不気味な爪痕が木々に刻まれ、地面には異様に大きな足跡が残されていた。足跡は人間のものに似ていたが、指が六本あり、爪が異常に長く鋭かった。古老の一人が震えながら呟いた。「あれだ。あの化け物だよ……」
それから数日後、タケシは毎夜悪夢にうなされた。夢の中で、ケンジが血まみれで助けを求めながら、闇の奥へと引きずられていく。そして、その闇の中から現れる異形の怪物。そいつは人間の形をしていたが、背は異常に高く、腕は地面に届くほど長く、顔には目が三つ、口は耳まで裂けていた。咆哮を上げると、森全体が震え、耳が裂けるほどの音が響き渡った。
ある夜、タケシは眠れずに窓の外を見ていた。すると、遠くの山の稜線に、月明かりに照らされた巨大な影が浮かんだ。それは夢で見た怪物そのものだった。タケシは息を呑み、布団に潜り込んで震えた。翌朝、村の猟師が山で奇妙なものを発見したと騒ぎになった。それは、ケンジがいつも身につけていた赤い帽子だった。血に染まり、引き裂かれた状態で木の枝に引っかかっていた。
村人たちは恐怖に震え、夜の外出をさらに厳しく禁じた。しかし、それで終わりではなかった。次の満月の夜、村の外れに住む老夫婦が忽然と姿を消した。彼らの家には、巨大な足跡と、壁に刻まれた爪痕が残されていた。村はパニックに陥り、古老たちは「山の神の怒りだ」と祈りを捧げたが、失踪者は増える一方だった。
タケシは罪悪感に苛まれた。あの夜、自分が仲間を誘わなければ、ケンジは死ななかったかもしれない。ユウジも同じ気持ちだったようで、二人で山に詫びを入れることを決めた。昼間に山の入り口で線香を焚き、ケンジの冥福を祈った。しかし、その帰り道、タケシは背後に異様な気配を感じた。振り返ると、木々の間から三つの目がこちらを睨んでいた。
逃げようとした瞬間、地面が揺れ、怪物が咆哮と共に姿を現した。タケシとユウジは悲鳴を上げて走ったが、怪物は異様な速さで迫ってきた。長い腕が振り下ろされ、タケシは咄嗟にユウジを突き飛ばして庇った。次の瞬間、タケシの視界は暗転し、激痛と共に意識が遠のいた。
ユウジだけが村にたどり着き、泣きながら助けを求めた。村人たちが駆けつけた時、タケシの姿はなく、ただ血の跡と、引きずられたような痕が山の奥へと続いていた。ユウジはその後、言葉を失い、ただ怯えた目で山を見つめるようになった。
それから村では、怪物の咆哮が時折聞こえるようになった。満月の夜になると、必ず誰かが消え、血の染みや爪痕が残された。村人たちは逃げ出す者もいたが、多くは貧しさゆえに留まり、怯えながら暮らした。そして、怪物は決して姿を消さず、闇の中で咆哮を上げ続けた。
今でも、福井県のその山奥を訪れる者は少ない。訪れた者の中には、遠くから聞こえる不気味な音や、木々の間に蠢く影を見たという証言もある。古老の言い伝えはこう締めくくられていた。「あれは人間の罪を見ている。決して逆らうな。さもなくば、闇に喰われるぞ。」