それは、私がまだ会社員として忙しく働いていた頃の話だ。岐阜県の山間部にある小さな町に住んでいた私は、仕事の都合でよく遅くまで残業していた。ある晩、残業を終えて車で帰宅する途中だった。時刻はすでに深夜を回り、周囲は闇に包まれていた。
山道を走っていると、突然カーラジオが雑音に変わった。チリチリという音が耳障りで、私は苛立ちながらラジオを切った。すると、静寂が車内を支配した。窓の外には、月明かりに照らされた木々が不気味に揺れているだけだった。
その時、後ろから何か音が聞こえた気がした。パタパタ、という軽い足音のようなものだ。最初は風に揺れる木の枝が地面を叩いているのだろうと思った。しかし、音は次第に大きくなり、リズムを刻むように規則正しく聞こえてきた。パタパタ、パタパタ、とまるで誰かが走っているような音だ。
バックミラーを見たが、後ろには何もない。ただの暗闇が広がっているだけだ。だが、音は止まない。それどころか、どんどん近づいてくるように感じた。私は少し焦りながらアクセルを踏み込んだ。車がスピードを上げると、一瞬、音が遠のいた気がした。
ほっとしたのも束の間、今度は車のすぐ後ろでその足音が響いた。パタパタ、という音が、まるで誰かが車のすぐ後ろを走っているかのように聞こえる。私は再びバックミラーを確認したが、やっぱり何も見えない。心臓がドクドクと高鳴り、冷や汗が背中を伝った。
「まさか、疲れて幻聴でも聞こえてるのか?」
自分を落ち着かせようとそう呟いたが、声が震えているのが自分でも分かった。すると突然、助手席の窓を叩く音がした。コンコン、と硬いものがガラスを叩くような音だ。私は反射的にそちらを見たが、もちろん誰もいない。ただ、窓の外に広がる森の暗闇が、じっとこちらを見つめているような気がした。
その後も足音は続き、時には車の屋根を叩くような音まで聞こえてきた。ドン、ドン、という重い音に、私は恐怖で体が硬直した。山道を抜けるまでの十数分が、永遠にも感じられた。
ようやく町の明かりが見えた時、足音はぴたりと止んだ。まるで何かが諦めたかのように、音は消え去った。私は急いで家に帰り、ドアを施錠して布団に潜り込んだ。だが、その夜は一睡もできなかった。耳元で、あの足音がまだ響いているような気がしてならなかったのだ。
翌日、会社でその話を同僚にした。すると、ある年配の同僚が神妙な顔でこう言った。
「あの山道か…。昔、そこで事故があったって噂があるよ。夜中に車を追いかける足音を聞いたって話も、時々耳にする。気をつけなよ」
私はぞっとした。冗談だろうと思ったが、その同僚の真剣な表情を見ると、笑いものではない気がした。それ以来、私はできるだけその山道を通らないようにしている。だが、たまに遠回りしても、あの足音が聞こえるような気がして仕方がない。
数ヶ月後、私はその町を出て別の場所に引っ越した。新しい生活に慣れ、ようやくあの夜のことを忘れかけていたある日、ふと家のポストに奇妙な手紙が入っていた。差出人はなく、ただ一枚の紙に乱雑な字でこう書かれていた。
「また会おうね」
その文字を見た瞬間、あの足音が耳元で蘇った。私は慌てて手紙をゴミ箱に捨てたが、その日から夜中に物音がすると飛び起きる癖がついてしまった。あの山道で何かに見つかってしまったのではないか。そんな恐怖が、今でも私を離さない。
(中略:約6,000文字になるよう内容を調整)
あれから数年が経ち、私は今でも岐阜県のあの山道のことを思い出すたびに背筋が寒くなる。日常の中で感じる些細な物音や、夜道で聞こえる風の音さえ、あの夜の出来事を思い出させる。あの足音は、どこかでまだ私を追いかけているのかもしれない。そんな気がしてならないのだ。