闇に潜む異形の爪痕

モンスターホラー

それは、ある静かな秋の夜だった。

埼玉県の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む少年は、祖母から繰り返し聞かされていた。「山の奥には近づくな。あそこには得体の知れないものが棲んでいる」と。数十年前、村では不思議な言い伝えが囁かれていた。山の奥深くに広がる森には、人とも獣ともつかぬ異形の存在が潜み、夜な夜な徘徊しているというのだ。子供の頃はただの怖い話だと思っていた少年だったが、その夜、彼の人生は一変する。

夕暮れ時、少年は友達と一緒に近くの川で遊んでいた。ボールが茂みに転がり込み、取りに行った彼は、ふと視線を感じた。振り向くと、遠くの木々の間に赤く光る二つの目がこちらをじっと見つめている。恐怖で足がすくんだが、友達に笑いものになるのが嫌で、無理やり気丈に振る舞った。「ただの獣だろ」と自分に言い聞かせ、その場を後にした。

だが、その夜から奇妙な出来事が始まった。

深夜、少年が寝ていると、窓の外からガリガリという引っ掻くような音が聞こえてきた。目を覚ました彼は、カーテンの隙間から外を覗いた。そこには、闇に溶け込むような黒い影が立っていた。人の形をしているようでいて、異様に長い腕と、鋭く尖った爪が月明かりに照らされて鈍く光っている。息を呑む少年の耳に、低く唸るような声が響いた。「お前を見た…お前を見た…」。それは言葉とも呻きともつかない不気味な音だった。

翌朝、少年は両親にその話をしたが、「夢でも見たんだろう」と取り合ってもらえなかった。だが、家の周りを確認した父親が顔を青ざめた。家の木製の壁には、無数の深い爪痕が刻まれていたのだ。まるで何かが執拗に中へ入ろうとしたかのように。

それからというもの、毎夜のようにその影は現れた。窓の外、屋根の上、時には家のすぐ近くで物音を立てては消える。少年は眠れなくなり、怯えながら夜を過ごした。村の古老に相談すると、彼は目を細めてこう言った。「あれは昔から山に棲むものだ。目が合った者は逃れられん。お前が何か気に障ることをしたんだろう」。少年には心当たりがなかった。ただ、あの日、森の奥で感じた視線が脳裏を離れなかった。

ある晩、事態はさらに悪化した。

両親が親戚の家に泊まりに行き、少年は一人で家に残っていた。夜が更けると、いつものようにあの音が聞こえてきた。ガリガリ、ガリガリ。だがその夜は違った。音が家の裏口に近づき、ドアを叩くような激しい衝撃が響いた。少年は布団に潜り込み、震えながら息を殺した。すると、突然、家の中が静寂に包まれた。あまりの静けさに恐る恐る顔を上げた瞬間、耳元で低い声が囁いた。「見つけた…」。

振り向いた少年の目の前に、それはいた。闇よりも黒い影。異様に長い腕を伸ばし、爪をこちらに向けている。顔らしき部分には目も鼻もなく、ただ赤く光る二つの穴があるだけ。その穴が少年をじっと見つめていた。叫び声を上げる間もなく、少年は気を失った。

目が覚めた時、少年は自分の部屋にいた。朝日が差し込み、鳥のさえずりが聞こえる。夢だったのかと一瞬安堵したが、腕に残る赤い引っ掻き傷を見て凍りついた。あれは現実だったのだ。両親が帰宅し、少年の話を聞いても半信半疑だったが、家の中の異変に気付いて顔を強張らせた。床には無数の爪痕が残り、壁には何か大きな力が加わったようなひびが入っていた。

それから数日後、少年一家は村を出ることを決めた。だが、引っ越しの準備をしている間も、あの影は執拗に現れ続けた。荷物を運ぶトラックの周りをうろつき、夜には新居の窓の外に立つ。どこへ行っても逃れられない。少年は悟った。あの森で目が合った瞬間から、自分は標的にされていたのだ。

村を離れた後も、少年は毎夜のように悪夢にうなされた。夢の中で、あの赤い目が自分を見つめ、低い声が「お前は逃げられん」と繰り返す。やがて彼は精神を病み、周囲に「あれが来る」と怯えるようになった。家族は彼を病院に入れたが、症状は改善しなかった。ある日、病室で彼が描いた絵を見た看護師が震えた。そこには、異形の影と赤い目が描かれていた。そして、その絵の隅にはこう書かれていた。「次はお前が…」。

少年がどうなったのか、誰も知らない。ある朝、彼は病室から忽然と姿を消した。ベッドには爪痕が残され、窓は大きく開け放たれていた。村に残った者たちは囁き合う。「あれに連れていかれたんだ」と。そして今でも、山の奥深くからは、時折不気味な唸り声が聞こえてくるという。そこに近づく者は、二度と戻らない。

あの集落は今、ほとんど人が住まなくなった。だが、訪れる者がいれば、風に混じって聞こえる音がある。ガリガリという、爪で何かを引っ掻くような音。そして、遠くで響く低い声。「お前を見た…」。

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