凍てつく夜の訪問者

オカルト

北海道の冬は厳しい。風が窓を叩き、雪が視界を白く染める。私は小さな町の古いアパートに住む会社員だ。家族も恋人もおらず、静かな生活を好んでいた。だが、あの夜から全てが変わった。

その日は特に寒く、夜遅くまで仕事を終えて帰宅した。時計は23時を回っていた。アパートの階段を上り、鍵を開けると、部屋の中はいつもより冷え切っていた。暖房をつけ、コートを脱ぎながら、妙な違和感を覚えた。静かすぎるのだ。外の風の音さえ聞こえない。まるで世界が息を潜めているようだった。

疲れていた私は気にせず、熱いお茶を淹れてソファに腰を下ろした。すると、どこからか微かな音が聞こえてきた。カタ…カタ…。最初は古いアパート特有の軋みだと思った。だが、音は次第に規則的になり、近づいてくる。カタ、カタ、カタ。まるで誰かが硬い爪で床を叩いているような音だ。

私は息を殺して耳を澄ませた。音は廊下の方から聞こえる。部屋の明かりを消し、ドアの覗き穴を覗いた。そこには誰もいない。ただ暗い廊下が広がるだけだ。安心したのも束の間、今度はドアのすぐ向こうで音がした。カタカタカタ。心臓が跳ね上がる。私はドアに近づかず、じっとその場に立ち尽くした。

しばらくして音が止んだ。ほっとしたのもつかの間、今度は窓の方から別の音が聞こえてきた。ガリ…ガリ…。何かがガラスを引っ掻いている。私は恐る恐るカーテンを少しだけ開けた。外は吹雪で真っ白だ。だが、その白さの中に、黒い影が立っていた。人の形をしているが、異様に細長い。顔は見えない。ただ、じっとこちらを見ている気配がした。

私は慌ててカーテンを閉め、電気を全て消して布団に潜り込んだ。心臓がバクバクと鳴り、冷や汗が止まらない。あれは何だったのか。幻覚か、それとも…。考えを振り払おうとしたが、頭の中にあの影がこびりついて離れない。

翌朝、目が覚めると部屋はいつも通りの静けさに戻っていた。昨夜の出来事が夢だったのかと思うほどだ。しかし、窓に近づいた瞬間、背筋が凍った。ガラスの外側に、無数の引っ掻き傷が残されていた。細く、深く、まるで鋭い爪で刻まれたように。

それから数日、私は毎晩のように奇妙な気配を感じるようになった。夜中に目が覚めると、部屋の隅に誰かが立っているような感覚。振り返っても何もいない。だが、視線を感じるのだ。冷たく、鋭い視線が私を貫く。眠れなくなり、仕事にも支障が出始めた。

ある夜、ついに我慢できなくなった私は友人に相談した。彼は地元出身で、昔から怪談に詳しい男だった。私の話を聞いて、彼は顔を曇らせた。「それ、もしかして『夜爪』かもしれない」と彼は言った。夜爪とは、この辺りに伝わる言い伝えだ。吹雪の夜に現れ、家々の窓を引っ掻き、住人を恐怖に陥れる存在。昔、飢饉で死んだ者たちの怨念が形を成したものだとされている。

「そんな迷信、信じられない」と私は笑いものにしたが、彼は真剣な目で続けた。「夜爪は一度目をつけた相手を離さない。引っ掻き傷がその証だ。お前、気をつけろよ」。その言葉が頭に残り、私はますます不安になった。

その夜、私は対策を講じることにした。窓に塩を撒き、ドアに護符を貼った。友人が冗談半分に教えてくれた方法だが、やらないよりはマシだと思った。そして、電気をつけたまま眠りについた。どれだけ時間が経っただろうか。突然、耳元で声がした。「見てるよ…」。低く、掠れた声。私は飛び起きた。部屋を見回すが誰もいない。だが、確かに聞こえたのだ。

恐怖が頂点に達した私は、次の日、アパートを引き払うことを決めた。荷物をまとめ、不動産屋に連絡し、急いで新しい住処を探した。引っ越しの日、荷物を運び出す間、私は何度も背後に気配を感じた。振り返っても誰もいない。だが、確信していた。あれはまだ私を見ている。

新しいアパートに移ってからも、夜になると時折あの引っ掻く音が聞こえる気がする。窓の外を見ても何もない。ただ、吹雪の夜になると、私は決まってカーテンを閉め、明かりをつけたまま眠る。あの影がまた現れるのではないかという恐怖が、未だに私を離さない。

今でも思う。あの夜、窓の外に立っていたものは何だったのか。人間ではなかった。あの細長い影と、鋭い爪の痕跡。そして、私を見つめる冷たい視線。あれは確かにそこにいた。そして、もしかすると今もどこかで私を見ているのかもしれない。

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