それは、ある夏の夜のことだった。
私は岡山県の山間部にある小さな集落に住む会社員だ。普段は車で30分ほどの距離にある町のオフィスに通勤している。この日は残業が長引き、帰路についたのは午後11時を過ぎていた。山道を走る私の車だけが、静寂を切り裂くようにヘッドライトを点けて進んでいた。
この辺りは人家もまばらで、道の両側には鬱蒼とした森が広がっている。カーラジオからはノイズ混じりの音楽が流れていたが、それすらも単調に感じて、私は少し窓を開けた。涼しい夜風が車内に入り込み、眠気を覚ますにはちょうど良かった。
しばらく走っていると、遠くに何かが見えた。薄暗い道の先に、白っぽい影が立っているように思えたのだ。最初は動物かと思ったが、近づくにつれてそれが人の形をしていることが分かった。こんな時間にこんな場所で人がいるなんておかしい。私は少し速度を落とし、様子をうかがった。
それは若い女だった。白いワンピースを着ていて、長い髪が風に揺れている。道の脇にただ立っているだけで、こちらを見ている様子もない。私は一瞬、事故か何かで困っている人かもしれないと考えた。クラクションを軽く鳴らしてみたが、反応はない。仕方なく車を停め、窓から声をかけてみた。
「大丈夫ですか?何か用があってここにいるんですか?」
女はゆっくりと顔を上げた。その顔は青白く、目が異様に大きく見えた。彼女は無言で私を見つめ、唇が微かに動いたように見えたが、声は聞こえなかった。私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。それでも、放っておくわけにもいかないと思い、車から降りて近づこうとした。
その瞬間、女が消えた。いや、消えたというより、霧のように溶けるように姿が薄れていったのだ。私は目を疑った。辺りを見回したが、誰もいない。風が木々を揺らす音だけが響いていた。私は急いで車に戻り、ドアをロックした。心臓が早鐘のように鳴り、手が震えていた。
エンジンをかけ直し、急いでその場を離れた。バックミラーを見ると、後ろの道には何も映っていなかった。ただ、なぜか車内が急に冷え込んだ気がした。エアコンはつけていないのに、吐く息が白く見えた。私は恐怖を振り払うようにアクセルを踏み込んだ。
家に着いたのは午前0時を回った頃だった。車を降りて家の鍵を開けていると、背後でかすかな音がした。振り返ると、誰もいない。ただ、遠くの山の方から、女の声のようなものが聞こえてきた気がした。それは歌とも呟きともつかない、細く高い音だった。私は慌てて家に飛び込み、鍵をかけた。
その夜は眠れなかった。窓の外を何かが通り過ぎるような気配がして、何度も目を覚ました。翌朝、疲れ切った状態で起きると、車の助手席に白い布切れが落ちているのに気づいた。それはワンピースの裾のようなもので、どこかで引っかかったように少し破れていた。私は昨夜の女を思い出し、ぞっとした。
後日、職場の同僚にその話をすると、彼は少し顔を曇らせた。「その道か…。実は昔、そこを通った人が似たような話をしたことがあるよ。深夜に白い服の女を見たって。それっきり行方不明になった人もいるらしい。」私は言葉を失った。冗談だろうと思ったが、同僚の目は真剣だった。
それからというもの、私はその道を避けるようになった。別のルートを使うと少し遠回りになるが、仕方ないと思っている。ただ、時折、夜中に家の近くで妙な音が聞こえることがある。風の音だと自分に言い聞かせているが、心のどこかで、あの女がまだどこかにいるのではないかと感じている。
ある晩、眠れない夜にふと窓の外を見た。庭の木陰に、白い影が揺れているように見えた。私はカーテンを閉め、電気をつけたまま朝を待った。あの女が何だったのかは分からない。ただ一つ確かなのは、あの夜以来、私の日常に何か得体の知れないものが入り込んだということだ。