朽ちた社の囁き

心霊現象

数年前、私は友人と共に岩手県の山奥を訪れた。目的は、ただの気まぐれなドライブだった。秋も深まり、紅葉が山々を彩る季節。車窓から見える景色は息を呑むほど美しかったが、どこか寂しげで、不思議な静けさに包まれていた。

その日、私たちは特に目的地を決めていなかった。適当に曲がった細い山道を進むうちに、ナビが突然途切れ、携帯の電波も圏外になった。友人は「こういう冒険も悪くない」と笑っていたが、私は胸の奥に小さな不安が芽生えていた。やがて、道の脇に古びた鳥居が現れた。苔むした石段が続き、その先には小さな社が見えた。屋根は半分崩れ、木々が絡みつくように覆い、長い間人の手が入っていないことが一目で分かった。

「ちょっと見てみようぜ」と友人が提案し、私は渋々同意した。車を降りると、冷たい風が首筋を撫で、どこからか低い唸り声のような音が聞こえた。風の音だろうと自分を納得させつつ、石段を登り始めた。足元で枯れ葉がカサカサと音を立てるたび、心臓が跳ねるような感覚があった。

社に近づくと、空気が一変した。重く、湿った空気が体にまとわりつき、息苦しさを感じた。社の前には小さな賽銭箱があったが、中は空っぽで、錆びた鈴が風に揺れてかすかに鳴っていた。友人は興味津々で中を覗き込み、「何もねえな」と呟いた。その時、鈴の音が一瞬止まり、代わりに女の声が聞こえた気がした。「…帰れ…」。掠れた、細い声。私は振り返ったが、誰もいない。友人に「何か聞こえなかった?」と尋ねると、彼は首を振って笑った。「お前、ビビりすぎだろ」。

それでも、私は居心地の悪さを感じて「もう行こう」と促した。しかし、友人は「せっかく来たんだから」と、社の裏に回り始めた。私は仕方なく後を追った。裏に回ると、そこには小さな石碑があった。風化して文字はほとんど読めないが、かすかに「奉納」と彫られているのが分かった。そして、その石碑の根元に、赤黒い染みのようなものが広がっていた。血のような色だったが、長い年月を経たものらしく、土に染み込んで乾いているようだった。

友人が「これ、なんかの儀式の跡じゃね?」と冗談めかして言った瞬間、背後でガサッと音がした。木々が揺れ、何かが動いた気配。私は反射的に振り向いたが、何も見えない。ただ、風が強くなっただけかもしれない。それでも、背筋に冷たいものが走った。友人もさすがに気味が悪くなったのか、「そろそろ戻るか」と言い出した。

車に戻る途中、私は何度も後ろを振り返った。誰もいないはずなのに、視線を感じる。石段を下りるたび、足音が一つ多い気がした。自分のもの、友人のもの、そして…もう一つ。微かに聞こえるそれは、裸足で地面を踏むような、湿った音だった。車に乗り込み、エンジンをかけると、私は少し安心した。だが、バックミラーに映ったのは、社の方向に立つ黒い影だった。一瞬だったが、確かにそこにあった。友人は気づかず、鼻歌を歌いながらハンドルを握っていた。

その夜、私たちは近くの町の旅館に泊まった。疲れていたはずなのに、眠れない。窓の外から、時折カタカタと何かが叩く音が聞こえる。風に揺れる木の枝だろうと思ったが、音は一定のリズムを刻んでいた。目を閉じると、あの社の裏の石碑が脳裏に浮かぶ。赤黒い染みと、どこからか聞こえた「帰れ」という声。まどろみの中で、私は夢を見た。暗い森の中、裸足の女が立っている。顔は見えないが、長い髪が風に揺れ、こちらを見つめている。彼女が一歩近づくたび、地面が赤く染まる。そして、耳元で囁かれた。「お前が…連れてきた…」。

目が覚めた時、部屋は静かだった。友人は隣で寝息を立てている。私は汗でびっしょりだった。時計を見ると、ちょうど丑三つ時。窓の外を見ると、月明かりに照らされた庭に、黒い影が立っていた。女の形をしていた。慌てて友人を起こそうとしたが、彼は起きない。体が重く、声も出ない。影はゆっくりと近づき、窓ガラスに手をついた。ガラス越しに、彼女の顔が見えた。目がなかった。黒い穴が二つ、こちらをじっと見つめている。恐怖で息が詰まり、私は気を失った。

朝、友人にその話をすると、彼は笑いものだと言った。「お前、夢でも見たんだろ」。確かに、窓には何の跡もなかった。でも、私の腕には、赤い手形のような痣ができていた。友人は「どこかでぶつけたんだろ」と気にも留めなかったが、私は確信していた。あれは夢じゃなかった。

それから数日後、友人と連絡が取れなくなった。心配になって彼の家を訪ねると、誰もいない。部屋の中は荒れ果て、壁には赤黒い染みが広がっていた。警察に届け出たが、彼は行方不明のまま。私は今でも、あの社に近づかなければと後悔している。夜になると、時折あの囁きが聞こえる。「お前が…連れてきた…」。そして、窓の外に立つ影を見るたび、私は目を閉じるしかない。あの山奥の社は、今もそこに佇んでいるのだろう。誰かがまた、好奇心で近づくのを待っているかのように。

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