山形の山奥にひっそりと佇む小さな集落。そこに暮らす人々は、昔から「霧の夜には外に出るな」と言い伝えられてきた。深い森に囲まれたその場所では、霧が立ち込めると視界が閉ざされ、まるで世界が別の次元に飲み込まれたかのような静寂が訪れる。
ある秋の夜、冷たい風が木々を揺らし、濃い霧が集落を包み込んだ。私はその日、親戚の家に泊まりに来ていた。古びた木造の家は、時折軋む音を立て、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。親戚のおばさんは夕飯の後、火鉢に手を翳しながら低い声で言った。「今夜は霧が濃いね。戸締まりをしっかりしておくれよ。」その言葉に特別な重みを感じた私は、素直に頷いて窓や玄関を確認した。
夜が更けるにつれ、霧はますます濃くなり、窓の外は真っ白に染まった。まるで家が雲の中に浮かんでいるようだった。時計の針が深夜を指した頃、微かな音が耳に届いた。カタカタ……カタカタ……。最初は風が窓を揺らしているだけだと思った。でも、その音は次第に規則的になり、どこか遠くから近づいてくるような響きを帯びていた。
私は布団の中で息を潜め、耳を澄ませた。すると、音が家のすぐ近くまで来ていることに気づいた。カタカタ……カタカタ……。まるで誰かが爪で壁を引っ掻いているような、不快な音だった。恐る恐る窓に近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。霧の中、何か黒い影がゆらりと動いているのが見えた。人の形をしているようで、でもどこか歪んでいて、異様に長い腕が地面を引きずっているように見えた。
心臓が早鐘を打ち、私は慌ててカーテンを閉めた。その瞬間、音がピタリと止んだ。静寂が耳に痛いほどだった。安心したのも束の間、今度は家の裏手から別の音が聞こえてきた。ゴソゴソ……ゴソゴソ……。何かが這うような、湿った音。背筋が凍りつき、私はおばさんの部屋に駆け込もうとした。でも、廊下に出た瞬間、異変に気づいた。家の中が妙に冷たい。吐く息が白く、まるで冷蔵庫の中にいるようだった。
「おばさん!」私は声を上げたが、返事はない。おばさんの部屋の襖を開けると、そこには誰もいなかった。布団は乱れ、まるで急に飛び起きたかのようにシーツがめくれていた。不安が胸を締め付け、私は家の中を見回した。すると、台所の方から微かな声が聞こえてきた。囁くような、掠れた声。「こっちだよ……こっちだよ……。」
恐る恐る台所に近づくと、声がはっきりと聞こえてきた。それはおばさんの声に似ていたが、どこか不自然で、機械のように抑揚がなかった。台所の入り口に立った瞬間、背後でドン!と大きな音がした。振り返ると、玄関の戸が勢いよく開いていた。霧が家の中に流れ込み、冷たい空気が足元を這った。私は叫び声を上げて台所に飛び込んだが、そこには誰もいなかった。ただ、流し台の上に置かれた包丁が、まるで何かに使われたかのように濡れて光っていた。
その時、窓の外で再び影が動いた。今度ははっきりと見えた。それは人間の形をしていたが、顔がなかった。頭部はただの黒い塊で、目も鼻も口もない。それなのに、私をじっと見つめているような感覚がした。影はゆっくりと窓に近づき、長い腕をガラスに押し付けた。ガリガリ……ガリガリ……。爪がガラスを引っ掻く音が響き、私は恐怖で動けなくなった。
どれくらい時間が経ったのかわからない。気がつくと、私は床に座り込んでいた。影は消え、霧も薄れていた。朝日が差し込み、家の中は元の静けさを取り戻していた。おばさんは居間で眠っており、何事もなかったかのように目を覚ました。「昨夜はよく眠れたかい?」と笑顔で聞いてきたが、私は何も言えなかった。あの夜の出来事が現実だったのか、夢だったのかさえわからなかった。
それから数日後、集落の古老にその話をすると、彼は顔を曇らせてこう言った。「霧の夜に現れる影だよ。あれは昔、この土地で死んだ者たちの怨念が形になったものだ。見られてしまったら、もう逃げられない。」私は背筋が寒くなり、それ以上聞くのをやめた。でも、その日から、霧が立ち込める夜になると、あの囁き声が遠くから聞こえてくる気がしてならない。カタカタ……ゴソゴソ……。「こっちだよ……。」
今でも、霧の深い夜には外に出るのが怖い。あの影がまだどこかで私を待っているような気がしてならないのだ。