闇に響く子守唄の呪い

ホラー

明治の頃、岡山の山深い村に、妙という名の若い女が暮らしていた。彼女は村一番の美人で、透き通るような白い肌と長い黒髪が自慢だった。だが、その美貌とは裏腹に、妙の人生は不幸に満ちていた。幼い頃に両親を疫病で失い、親戚に引き取られたものの、冷たく扱われ、奉公に出された先でも辛い日々が続いた。それでも妙は気丈に振る舞い、村人たちからは「我慢強い娘だ」と評判だった。

ある秋の夜、妙は村外れの古い屋敷に奉公に出ることになった。そこはかつて庄屋が住んでいた大きな家だったが、主が亡くなって以来、誰も住まず、荒れ果てていた。村の者たちは「あの屋敷には何か得体の知れないものが棲んでいる」と囁き、近づくのを避けていた。だが、妙には選択肢がなかった。仕事がなければ生きていけないのだ。

屋敷に着いた初日、妙は異様な静けさに包まれたその場所に足を踏み入れた。木の軋む音が響き、風が隙間から忍び込んで不気味な唸りを上げていた。雇い主は年老いた女で、顔に深い皺が刻まれ、目は濁ってまるで死人のようだった。彼女は妙に一言だけ告げた。「二階の奥の部屋には絶対に入るな」。妙は素直に頷いたが、その声の冷たさに背筋が凍る思いがした。

日が暮れると、妙は台所で夕餉の支度を始めた。すると、どこからか微かな歌声が聞こえてきた。それは子守唄だった。低く、ゆったりとした旋律が屋敷の闇に溶け込み、妙の耳にまとわりついた。「ねんねんころりよ、おころりよ…」。声は幼い子どものものに似ていたが、どこか不自然で、感情が欠けたような響きだった。妙は首を振って気を取り直し、仕事に集中しようとした。だが、その夜、寝床に横になると、再び子守唄が聞こえてきた。今度ははっきりと、二階の奥の部屋の方から。

妙は雇い主の警告を思い出したが、好奇心と恐怖が交錯し、眠れぬまま朝を迎えた。翌日、老女にそのことを尋ねると、彼女は顔を強張らせ、「お前が聞いたのは風の音だ」と吐き捨てるように言った。しかし妙には分かっていた。あれは風ではない。生き物の声だ。

数日が過ぎ、妙は屋敷での暮らしに慣れ始めたが、子守唄は毎夜のように聞こえてきた。次第にその声は大きくなり、時には複数の子どもが歌っているように感じられた。ある晩、とうとう我慢できなくなった妙は、灯りを手に二階へと向かった。階段を上がるたび、足元の板が悲鳴のような音を立て、心臓が締め付けられるようだった。

二階の奥の部屋の前まで来た時、子守唄が突然止んだ。妙は息を呑み、震える手で襖を開けた。そこには何もなかった。ただ、埃にまみれた畳と、窓から差し込む月明かりだけが広がっていた。だが、次の瞬間、背後で子守唄が再び響き始めた。「ねんねんころりよ…」。振り返ると、そこには誰もいない。声は妙の耳元で囁くように続き、冷たい息が首筋を撫でた。

恐怖に駆られた妙は部屋を飛び出し、一階に逃げ帰った。だが、その日から子守唄は彼女を追いかけるようになった。屋敷の外に出ても、村の道を歩いていても、どこにいてもその歌声は聞こえてきた。妙の顔からは血の気が引き、髪は乱れ、村人たちは彼女を避けるようになった。「妙は気が触れた」と噂が立つほどだった。

ある嵐の夜、妙は決意した。この呪いを断ち切るため、再びあの部屋に向かうのだ。雷鳴が轟き、稲光が屋敷を照らす中、彼女は二階に立った。襖を開けると、そこには今まで見たことのない光景が広がっていた。部屋の中央に、ぼろ布に包まれた小さな人形が置かれ、その周りを白い影がぐるぐると回っていた。影は子どもの形をしており、口を動かさずに子守唄を歌っていた。

妙は人形に近づき、それを手に取った瞬間、全身が凍りつくような感覚に襲われた。人形の目が一瞬だけ動き、彼女を見つめた気がした。次の瞬間、影たちが一斉に妙に飛びかかり、彼女の体を包み込んだ。妙の叫び声は雷鳴にかき消され、屋敷に再び静寂が訪れた。

翌朝、村人が屋敷を訪れると、妙の姿はどこにもなかった。ただ、二階の奥の部屋に、妙のものと思われる髪の毛が一本だけ落ちていた。それ以来、村では妙の名を口にする者はいなくなったが、嵐の夜になると、どこからか子守唄が聞こえてくるという。村人たちは言う。「あれは妙の声だ。彼女はまだあの屋敷に囚われている」と。

時が流れ、屋敷は朽ち果て、雑草に埋もれた。だが、子守唄だけは消えることなく、闇の中で響き続けている。もし、岡山の山奥でその歌声を耳にしたら、決して振り返ってはいけない。妙があなたを待っているかもしれないから。

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