山に囲まれた長野の小さな集落に、友人と二人で旅行に行ったのは、夏の終わりだった。
その日は朝から霧が濃く、車で細い山道を進むのも一苦労だった。地図に載っていないような集落にたどり着いたのは、偶然だった。古びた木造の家々が点在し、住民の姿はほとんど見られなかった。静かすぎるその場所に、どこか不気味な空気が漂っていた。
宿泊先として見つけたのは、集落の外れにある古い民家を改装した宿だった。宿の主人は無口な老人で、挨拶をしてもかすかに頷くだけ。部屋に通されると、畳の匂いと湿った空気が鼻をついた。窓の外には深い森が広がり、木々の間から時折風がうなり声を上げていた。
夜が更ける頃、友人と二人で夕食を終え、部屋で雑談をしていた。すると、どこからともなく低い泣き声が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、耳を澄ませると確かに人の声だった。女の声とも男の声ともつかない、嗚咽のような音が断続的に響いてくる。友人もそれを聞きつけ、顔を見合わせた。
「外で何かあったのかな?」
友人がそう言って窓に近づいたが、濃い霧に覆われた森しか見えない。泣き声は次第に大きくなり、まるで宿のすぐ近くで誰かが泣いているようだった。気味が悪くなった俺たちは、宿の主人に事情を聞こうと部屋を出た。
階段を下りると、主人は囲炉裏の前に座っていた。火の光が彼の顔を不気味に照らし、まるで能面のような表情に見えた。
「あの、さっきから泣き声が聞こえるんですけど…何か知ってますか?」
俺がそう尋ねると、主人はゆっくりと顔を上げた。目が異様にぎょろりとしていて、一瞬背筋が凍った。
「山の声だよ。気にしない方がいい」
その言葉に、友人と俺は言葉を失った。山の声? 意味が分からないまま部屋に戻ると、泣き声はさらに激しくなっていた。今度ははっきりと、女の声だと分かった。悲しみとも怒りとも取れる叫びが、宿全体を包み込むように響き渡る。
眠れないまま朝を迎えたが、泣き声は夜明けとともにぴたりと止んだ。疲れ果てた俺たちは、早々に荷物をまとめて宿を出ることにした。主人は何も言わず、ただじっとこちらを見ていた。その視線が背中に突き刺さるようで、急いで車に乗り込んだ。
集落を離れ、山道を下っていると、友人が突然声を上げた。
「おい、あれ見てみろ!」
彼が指さす先を見ると、道の脇に古びた祠があった。苔むした石の表面に、何か赤黒い染みがこびりついている。車を停めて近づいてみると、それは血のような跡だった。祠の周りには小さな供え物が置かれていたが、どれも腐りかけていて異臭を放っていた。
「こんなところに誰が供え物なんか…」
友人が呟いた瞬間、背後でかすかな泣き声がした。振り返っても誰もいない。ただ、霧の中からその声だけが近づいてくる。慌てて車に戻り、アクセルを踏んだが、頭の中では昨夜の声がぐるぐると回り続けていた。
それから数日後、俺たちはあの集落について調べてみた。すると、20年ほど前にその辺りで若い女が失踪したという話を耳にした。山で迷い、行方不明になったまま見つからなかったらしい。地元の古老によると、彼女は恋人に裏切られ、絶望のあまり山に入ったのだという。それ以来、霧の深い夜には彼女の泣き声が聞こえるという噂が立っていた。
あの宿での出来事を思い出すたび、背筋が冷たくなる。あの泣き声は、確かに生きている人間のものではなかった。彼女は今も山のどこかで彷徨い、泣き続けているのだろうか。そして、俺たちに何を伝えようとしていたのか。それを考えると、夜中に目が覚めることが増えた。
最近、夢の中であの祠がよく出てくる。霧の中、赤黒い染みが広がっていく石の表面。そして、どこからか聞こえてくる泣き声。目を覚ますと、耳にその声が残っているような気がして、布団の中で震えるしかない。あの集落には二度と近づかないと誓ったが、彼女の声は俺の頭から離れることがない。