山梨の山奥にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む人々は、昔から山の神を敬い、夜になると決して外に出ないという不文律を守っていた。今から30年ほど前のこと、ある夏の夜、都会から移り住んできた若い夫婦がその掟を破ったことから、すべての恐怖が始まった。
夫婦は小さな娘を連れて、集落の外れに建つ古い家に引っ越してきた。夫は仕事で町へ出かけ、妻は娘と二人でその家に残ることが多かった。集落の人々は新参者に冷ややかだったが、ある老婆だけが親切に接してくれた。彼女は引っ越しの挨拶に訪れた妻に、こう忠告した。
「夜は絶対に外に出ちゃいけないよ。特に子どもの泣き声が聞こえたら、決して窓を開けちゃ駄目だ。」
妻は奇妙な忠告に首をかしげたが、都会育ちの彼女には田舎の迷信としか思えなかった。それでも、老婆の真剣な眼差しに少しだけ不安を覚えた。
数日後の夜、夫が遅くまで帰らない日だった。娘を寝かしつけた妻は、静寂に包まれた家の中でかすかな音を聞いた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれは子どもの泣き声のように聞こえてきた。娘は隣の部屋で眠っているはずだ。訝しく思いながらも、妻は窓辺に近づいた。外は真っ暗で、月明かりすら届かない深い闇が広がっている。
泣き声は次第に大きくなり、まるで家のすぐ近くで響いているようだった。妻の胸に冷たいものが走った。老婆の言葉を思い出したが、好奇心が恐怖を上回った瞬間、彼女は窓の錠を外し、そっと開けた。
そこには何もなかった。ただ、闇が広がるばかりだ。しかし、泣き声は一層はっきりと耳に届くようになった。妻は慌てて窓を閉め、娘の部屋へと急いだ。娘は布団の中で静かに眠っている。安堵したのも束の間、背後で再び泣き声が聞こえた。今度は家の中からだ。
振り返ると、暗い廊下の奥に小さな影が立っていた。娘と同じくらいの背丈。だが、その顔は見えない。影はゆっくりと近づいてくる。妻は娘を抱き上げ、部屋の隅に身を縮めた。影はドアの前で立ち止まり、じっとこちらを見つめているようだった。そして、突然、子守唄のような歌声が響き始めた。
「ねんねんころりよ、おころりよ…」
声は低く、どこか不気味に歪んでいる。妻は耳を塞ぎたくても、娘を抱く手が離せなかった。影は歌いながら、少しずつ近づいてくる。恐怖で体が震え、声も出せない。すると、娘が突然目を覚まし、泣き出した。その瞬間、影が消え、歌声も止んだ。
翌朝、夫が帰宅すると、妻は蒼白な顔で昨夜の出来事を話した。夫は半信半疑だったが、妻の怯えた様子を見て、集落の古老に相談することにした。古老は話を聞くなり顔を曇らせ、こう語った。
「あれは山の神の使いだ。昔、子を亡くした母親の霊が神にすがり、その子を探し続けている。夜に子どもの泣き声を聞いたら、それは誘いだ。決して応じてはいけない。」
夫婦はその日から、夜は絶対に外に出ないことを誓った。しかし、それで終わりではなかった。数日後の夜、再び泣き声が聞こえてきた。今度は窓の外ではなく、家の天井裏からだ。妻は夫にしがみつき、娘を抱きながら震えた。天井からは何か重いものが動く音がし、時折、子守唄が聞こえてくる。
翌日、夫は天井裏を確認したが、何も見つからなかった。ただ、古い木箱が一つだけ置かれていた。中には小さな着物と、髪の毛が数本入っていた。夫は気味悪がりながらも、それを集落の神社に持っていき、神主に相談した。神主は顔をこわばらせ、こう言った。
「これは封印されていたものだ。誰かが開けてしまったのか…。」
その夜から、夫婦は毎晩のように泣き声と子守唄に悩まされた。娘までもが夜中に目を覚まし、「お友達が呼んでる」とつぶやくようになった。夫婦は耐えきれず、ついに集落を出ることを決意した。引っ越しの準備を進める中、妻は娘が庭で一人遊びをしているのを見た。娘は誰かと話しているようだったが、そこには誰もいない。
「誰と話してるの?」と聞くと、娘は無邪気に答えた。
「お姉ちゃん。ずっと一緒にいるよって言ってる。」
妻は背筋が凍りつき、娘を家に連れ戻した。その夜、最後の夜だった。荷物をまとめ終え、明朝に出発する予定だった。深夜、妻はふと目を覚ますと、娘がベッドにいないことに気づいた。慌てて探すと、娘は玄関の前に立っていた。ドアが開き、娘が外へ歩き出そうとしている。
「ダメ!」と叫び、妻が娘の手を掴んだ瞬間、暗闇の中から無数の小さな手が伸びてきた。冷たく、湿った手が妻の腕を掴み、引きずり込もうとする。夫が駆けつけ、二人を家の中に引き戻した。ドアを閉め、鍵をかけたが、外からはドンドンと叩く音が響き、子守唄が途切れることなく続いた。
朝が来るまで、夫婦は娘を抱きしめ、祈るように耐えた。夜が明けると、音はぴたりと止んだ。急いで荷物を車に積み、集落を後にした。二度と戻ることはなかった。
それから数年後、別の家族がその家に引っ越してきたという噂を耳にした。そして、やはり夜になると子守唄が聞こえ、子どもが消えるという怪奇が続いたそうだ。集落の人々は「あの家は呪われている」と囁き合い、やがて誰も近づかなくなった。今でも、山奥のその家はひっそりと佇み、夜になるとどこからか子守唄が響いてくるという。