それは今から30年ほど前、徳島県の山深い集落での出来事だった。
その集落は、切り立った崖に囲まれ、外部との繋がりが薄い場所にあった。人家はわずか十数軒。昼間でも薄暗い杉林に囲まれ、風が吹けば木々がざわめき、不気味な音を立てた。そこに住む人々はみな、どこか陰気で、よそ者には冷たい視線を向けることが多かった。
その日、俺は大学の民俗学の研究のために、その集落を訪れていた。目的は、古くから伝わる風習や言い伝えを聞き取り、記録すること。地元の古老に話を聞く約束を取り付け、夕方近くに集落にたどり着いた。空はすでに茜色に染まり、山の稜線が不気味な影を落としていた。
案内されたのは、集落の外れにある古びた家だった。屋根は苔むし、壁は風雨にさらされて黒ずんでいる。玄関先に立つと、どこからか低い唸り声のようなものが聞こえてきた。風の音か、それとも何か別のものか。背筋に冷たいものが走ったが、気を取り直して戸を叩いた。
中から出てきたのは、痩せこけた老人だった。目が異様にぎょろりとしていて、俺を見た瞬間、かすかに口元が歪んだように見えた。「お前か、話を聞きに来たのは」と低い声で呟き、家の中に招き入れてくれた。部屋は薄暗く、囲炉裏の火がわずかに揺れているだけだった。壁には古い写真や何かの骨らしきものが飾られていて、異様な雰囲気が漂っていた。
老人は、集落に伝わる「山の咎人」の話を始めた。昔、この地で罪を犯した者は、山奥にある「咎人の穴」と呼ばれる洞窟に連れて行かれ、二度と戻ってこなかったという。そこは死よりも恐ろしい場所だとされ、咎人は穴の中で何かに「喰われる」と信じられていた。老人は目を細め、「今でも時々、穴から声が聞こえる」と不気味に笑った。
その話を聞いているうちに、俺は妙な感覚に襲われた。部屋の中が急に冷え込み、囲炉裏の火が一瞬だけ青く揺れた気がした。耳の奥で、かすかなうめき声のようなものが響き始めた。老人はそれに気づいたのか、「お前も聞こえたか」と低い声で尋ねてきた。俺は言葉に詰まり、ただ頷くしかなかった。
夜が更けるにつれ、老人の話はさらに異様な方向へと進んだ。彼は、ある男の話を始めた。その男は30年前、集落で禁忌を犯し、咎人の穴に連れて行かれた。だが、男は穴から這い出てきたというのだ。顔は土気色で、目は落ちくぼみ、口からは血と泥を吐きながら這いずり回った。集落の者たちは恐れおののき、男を再び穴に突き落としたが、その後も何日間か、穴の奥から断末魔の叫びが響き続けたという。
「その声はな、人間じゃなかった」と老人は目をぎらつかせて言った。「あれは、山が咎人を喰った音だ」。その言葉を聞いた瞬間、俺の背後で何かが動いた気がした。振り返ると、暗闇の中で影が揺れている。囲炉裏の火が一瞬消え、再び灯ったとき、老人の顔が異様に近くにあった。目が血走り、口が耳まで裂けたように歪んでいる。
「逃げろ」と老人が囁いた瞬間、家全体が揺れ、低い地鳴りのような音が響き渡った。俺は慌てて立ち上がり、玄関へと走った。外に出ると、月明かりに照らされた杉林の間を、何か黒い影が蠢いているのが見えた。それは人間の形をしていたが、動きが異様にぎこちなく、時折四足で這うようにも見えた。
俺は恐怖に駆られ、集落を抜け出す道を走った。背後からは、断続的に何かが地面を叩く音と、喉を潰したようなうめき声が追いかけてくる。道すがら、集落の家の窓から覗く無数の目が俺を見つめていた。どの顔も無表情で、ただじっと俺を見据えているだけだった。
どれだけ走ったかわからない。やっと集落の外れにある小さな橋にたどり着いたとき、背後の音がぴたりと止んだ。振り返ると、暗闇の中に赤い目が二つ、じっと俺を見ていた。息が詰まり、心臓が止まりそうになった瞬間、全身が急に重くなり、膝から崩れ落ちた。
気がつくと、俺は橋のたもとに倒れていた。朝日が昇り始め、辺りは静寂に包まれていた。体中が汗でびっしょりで、手には何かに掴まれたような赤い痕が残っていた。集落の方を見ると、霧が立ち込め、何も見えなくなっていた。
それから俺は二度とその集落には近づかなかった。だが、あの夜の記憶は今でも鮮明に残っている。時折、静かな夜に耳を澄ますと、遠くからかすかなうめき声が聞こえることがある。それは、山の咎人がまだ俺を呼んでいるのかもしれない。