鳥取の砂丘に足を踏み入れたのは、ほんの気まぐれだった。
その日、私は友人と二人でドライブに出かけていた。夏の終わりを迎えたばかりの午後、車窓から見える景色に飽きてきた頃、彼女が「砂丘に行ってみない?」と提案してきたのだ。特に予定もなかった私は軽い気持ちで同意し、車を砂丘へと向けた。夕暮れが近づく中、到着した砂丘は静寂に包まれていた。観光客の姿はまばらで、風が砂をさらさらと動かす音だけが耳に届く。どこか非現実的なその光景に、私たちはしばらく見とれていた。
「ちょっと歩いてみようか」と彼女が言い、私たちは靴を脱いで砂の上に足を踏み入れた。冷たく柔らかい砂の感触が心地よく、二人で笑いながら奥へと進んでいった。だが、歩き始めて数分もしないうちに、異変に気づいた。風が止み、周囲が急に静かになったのだ。耳鳴りのような高音が遠くから聞こえ始め、私は立ち止まって辺りを見回した。「何か変じゃない?」と彼女に尋ねると、彼女も不安げに頷いた。
その時、砂丘の向こうから低い唸り声のようなものが聞こえてきた。動物の声とも機械音ともつかない、不気味な響きだった。私は背筋が寒くなり、彼女の手を握って「戻ろう」と促した。だが、振り返った瞬間、目を疑った。私たちが歩いてきたはずの足跡が、きれいさっぱり消えていたのだ。まるで誰かに掃き清められたように、砂の表面は滑らかで、私たちの存在を否定するかのようだった。
「どういうこと?」彼女の声が震えていた。私は冷静を装いながら「風のせいだよ、きっと」と答えたが、心の中では得体の知れない恐怖が膨らんでいた。急いで車に戻ろうと歩き出したが、どれだけ進んでも駐車場が見えてこない。砂丘はどこまでも続き、遠くに見えるはずの道路や木々の影すら消えていた。携帯を取り出して位置を確認しようとしたが、画面は真っ暗なまま。電源が入らない。彼女の携帯も同じだった。
パニックになりかけたその時、砂の表面に何かが見えた。遠くに、黒い影のようなものが立っている。人間の形をしているように見えたが、距離が遠すぎてはっきりしない。私は目を凝らして見つめたが、次の瞬間、その影が消えた。驚いて彼女に「今何か見なかった?」と聞くと、彼女は青ざめた顔で「見えたよ…あれ、何だったの?」と呟いた。
それから状況はさらに悪化した。影は一度消えたきりだったが、代わりにあの唸り声が近づいてきた。風もないのに砂が渦を巻き始め、私たちの周囲を囲むように動き出した。私は彼女の手を強く握り、走り出した。どこへ向かっているのかも分からないまま、ただその場から逃げようと必死だった。だが、どれだけ走っても景色は変わらず、砂丘の果てが見えない。息が上がり、足が重くなった頃、彼女が突然立ち止まった。
「聞いて」と彼女が囁いた。耳を澄ますと、唸り声の中に別の音が混じっているのが分かった。それは、人の声だった。聞き取れないほど小さく、かすかに響くその声は、まるで助けを求めるような悲痛な調子だった。私は全身に鳥肌が立ち、彼女と顔を見合わせた。「誰かいるの?」と彼女が震える声で言った瞬間、砂の中から何かが動く音がした。
見ると、すぐ近くの砂が盛り上がり、ゆっくりと何かが這い出てくる。人間の手のような形だったが、指は異様に長く、皮膚は灰色でひび割れていた。私は悲鳴を上げ、彼女を引き寄せて後ずさった。だが、その手は砂の中からさらに伸び、私たちの足元に迫ってきた。私は恐怖で頭が真っ白になり、ただ彼女を抱きしめて目を閉じた。
どれくらい時間が経っただろう。ふと気づくと、周囲は静かになっていた。恐る恐る目を開けると、砂丘は元の姿に戻り、遠くに駐車場の明かりが見えた。あの手も、唸り声も、すべてが消えていた。私は彼女を見た。彼女は放心状態で私の腕の中で震えていた。「大丈夫?」と声をかけると、彼女は小さく頷いたが、その目には涙が浮かんでいた。
車に戻り、急いでその場を離れた。帰り道、二人ともほとんど言葉を交わさなかった。ただ、助手席の彼女が時折小さく震えているのが気になった。家に着いた後、私はシャワーを浴びて落ち着こうとしたが、あの灰色の手の感触が頭から離れない。夜、布団に入っても眠れず、目を閉じるたびに砂丘の光景が蘇った。
翌朝、彼女からメッセージが届いた。「昨日のこと、夢じゃなかったよね?」と。私は「うん、夢じゃない」と返信したが、その後彼女からの連絡は途絶えた。心配になって電話をかけたが、繋がらない。結局、彼女の家を訪ねたが、そこには誰もいなかった。近所の人に聞いても、「あの子なら昨日から見ていないよ」と言われた。
それから数日後、私は一人で砂丘に戻った。彼女を探すため、そしてあの出来事が現実だったのか確かめるためだ。砂丘に着いた時、風が強く吹き、砂が舞っていた。私は目を細めて歩き出したが、すぐに異変に気づいた。砂の上に、彼女の靴が片方だけ落ちていたのだ。拾い上げて見ると、靴底には灰色の砂がこびりついており、かすかにあの唸り声のような音が聞こえた気がした。
私は今でも思う。あの砂丘には何かがあった。現代の科学では説明できない、異次元から忍び寄る存在が。私と彼女は偶然その境界に踏み込んでしまったのかもしれない。そして彼女は、私の知らない場所へ連れ去られてしまったのだろうか。時折、風の強い夜に窓の外を見ると、遠くからあの声が聞こえてくるような気がしてならない。