北海道の冬は厳しい。吹雪が大地を覆い尽くし、視界を奪う。数年前のある夜、私は小さな集落で暮らす友人を訪ねるため、雪深い山道を車で走っていた。友人は猟師で、冬の間は山奥の小屋にこもって獲物を追う生活を送っている。集落に着いたのは夜遅くで、雪はすでに膝まで積もっていた。
集落の外れにある友人の家にたどり着くと、明かりは消えていた。車のエンジンを切り、静寂が耳に刺さる。携帯の電波も届かず、不安が胸を締め付けた。それでも、約束していた手前、ドアを叩いてみた。返事はない。仕方なく、小屋の周りを歩いて様子を窺うことにした。
雪の上に足跡があった。新しく、乱れた足跡。人間のものにしては大きすぎるし、動物のものとも違う。妙な感覚が背筋を這った。足跡をたどると、小屋の裏手に続いている。そこには、雪に埋もれた猟銃が落ちていた。友人が手放すはずのないものだ。拾い上げると、銃身が冷たく、手が震えた。
その時、遠くから低い唸り声が聞こえた。風に混じって、かすかに、だが確かに。振り返ると、雪原の向こうに何か黒い影が動いているのが見えた。人の形をしているようで、でもどこか歪んでいる。背が高く、手足が異様に長い。目を凝らすと、それがこちらを見ている気がした。いや、見つめている。
心臓が跳ね上がり、足がすくんだ。影はゆっくりと近づいてくる。距離が縮まるたび、その姿がはっきりしてきた。顔らしき部分には目も鼻もなく、ただ黒い穴がぽっかりと開いている。口だけが異様に大きく、裂けたように広がっていた。歯はない。唾液のようなものが滴り、雪に落ちて小さな穴を開けていた。
逃げなきゃ。頭ではそう思うのに、体が動かない。影がすぐそこまで来ると、風が止んだ。静寂の中で、その口から声が漏れた。「お前…見たな…」。低く、濁った声。人間の言葉なのに、どこか獣じみている。私は叫び声を上げ、ようやく足が動き出した。車に飛び乗り、エンジンをかける。バックミラーに映る影は、じっとこちらを見ていた。
車を飛ばして集落を抜け、街まで戻ったのは明け方だった。警察に連絡し、友人の安否を確かめに戻ったが、小屋は空っぽだった。猟銃も足跡も、まるで最初からなかったかのように消えていた。ただ、雪原の端に、黒い染みのようなものが残っていた。警察は「動物の仕業だろう」と片付けたが、私は知っている。あれは動物なんかじゃない。
それから数日後、別の猟師から奇妙な話を聞いた。山奥で、異様に長い手足を持つ影を見たという。獲物を追っていたら突然現れ、低い声で何か呟いたらしい。それ以降、その猟師は山に入るのをやめた。私は確信した。あの夜、私が見たものは、この土地に古くから棲む何かだ。妖怪と呼ぶしかない存在。
今でも、雪の降る夜になると、あの声が耳に蘇る。「お前…見たな…」。友人は帰ってこなかった。どこかであの影に連れ去られたのか、それとも別の何かになったのか。答えはわからない。ただ一つ確かなのは、あの雪原には二度と近づかないということだ。北海道の冬は、美しいだけじゃない。そこには、人の理解を超えたものが潜んでいる。
数年経った今でも、夢に見る。あの黒い影が、じっと私を見つめる夢。目覚めると、汗で全身がびっしょりだ。そして、窓の外に雪が降っていると、必ず耳を澄ましてしまう。あの唸り声が、また聞こえてくるんじゃないかと。