深夜の廃墟に響く声

怪談

それは私がまだ学生だった頃の話だ。

大阪府の郊外にある、古びた団地に住んでいた。そこはかつては賑わっていたらしいが、数年前から住民が減り続け、私が引っ越してきた頃には半分以上の部屋が空室だった。昼間はまだしも、夜になると静寂が辺りを包み、時折風が古い建物の隙間を通り抜ける音だけが聞こえる。そんな場所だったが、家賃が安いという理由で、私はそこに住むことにした。

ある夜、バイト先から帰宅した私は、いつものように団地の階段を上っていた。時計はすでに午前1時を回っていて、周囲はしんと静まり返っていた。階段の踊り場に差し掛かった時、ふと異変を感じた。どこか遠くから、低い声が聞こえてくるのだ。最初は風の音かと思ったが、耳を澄ますと、それは確かに人の声だった。男とも女ともつかない、くぐもった声が、断続的に響いてくる。

「誰かいるのか?」

私は思わず口に出してしまったが、返事はない。声は階段の上の方から聞こえてくるようだった。少し怖くなったが、好奇心が勝り、私はそっと足音を忍ばせて上へ向かった。団地の構造上、階段は4階で終わり、そこから各部屋へと続く長い廊下が伸びている。私は4階の踊り場に立ち、暗い廊下を見渡した。電灯は一つおきにしか点いておらず、薄暗い光がコンクリートの壁に影を落としていた。

声はまだ聞こえる。いや、むしろ近づくにつれてはっきりしてきた。言葉は聞き取れないが、まるで誰かが呻いているような、苦しげな響きだった。私は恐る恐る廊下を進んだ。声の主を探すつもりだったが、同時に「見つからなければいい」という思いも頭をよぎっていた。

すると、廊下の奥、突き当たりの部屋の前で、声が急に大きくなった。部屋番号は「408」。扉は閉まっていて、中に明かりは見えない。だが、確かにその扉の向こうから声が漏れていた。私は立ち止まり、耳を澄ませた。すると、声が一瞬途切れ、次の瞬間、はっきりとこう聞こえた。

「……出てけ……」

背筋が凍った。声は低く、かすれていたが、確かにそう言った。私は一瞬、扉を見つめたまま動けなくなった。頭の中で「誰かが中にいるのか?」「でもこの部屋、空き家のはずだ」と考えがぐるぐる回る。団地の管理人から、この棟の4階はほとんど人が住んでいないと聞いていたし、408号室もずっと空室だと教えられていた。

「……出てけ……出てけ……」

声が繰り返し聞こえ始めた。しかも、だんだんと大きくなり、扉の向こうから近づいてくるように感じた。私はたまらず後ずさりし、そのまま階段を駆け下りた。自分の部屋に飛び込み、鍵をかけた瞬間、心臓がバクバクしているのが分かった。しばらく放心状態で座り込んでいたが、落ち着いてから考えると、あの声が現実のものだったのかさえ疑わしくなってきた。

翌日、気になって管理人にそれとなく聞いてみた。「408号室って、ずっと空いてますよね?」と。管理人は少し怪訝そうな顔をしたが、「ああ、あそこはもう何年も誰も入ってないよ。たまに変な噂はあるけどね」と言った。その「変な噂」が何なのか、詳しく聞く勇気は私にはなかった。

それから数日間は、特に何事もなく過ぎた。私はあの夜のことを半ば忘れかけていた。だが、ある晩、再びバイトから遅く帰宅した時、異変が起きた。部屋の鍵を開けようとドアノブに手をかけると、背後からかすかな音が聞こえた。振り返ると、廊下の奥から何かが近づいてくる気配がする。暗闇の中、目を凝らすと、それはゆっくりと動く影だった。

人間の形をしているが、どこか不自然だ。足音がしない。いや、足自体が見えないような気さえした。影は私の部屋の方へ向かってくる。私は慌てて部屋に入り、ドアを閉めた瞬間、ドンッと何かが扉にぶつかる音がした。続いて、低い声がドアの向こうから聞こえてきた。

「……ここも……出てけ……」

その声は、408号室で聞いたものと同じだった。私は恐怖で動けなくなり、ただドアを見つめていた。声はしばらく続き、やがて遠ざかっていった。翌朝、恐る恐るドアを開けてみると、廊下には何の痕跡もなかった。だが、それ以来、私はあの団地で落ち着いて眠ることができなくなった。

結局、数ヶ月後に引っ越すことにした。最後の日、荷物をまとめていると、ふと窓の外を見た。すると、向かいの棟の4階、ちょうど408号室の位置にあたる窓に、人影のようなものが見えた。距離があってはっきりとは分からなかったが、それがじっとこちらを見ているような気がした。私は急いでカーテンを閉め、そのまま団地を後にした。

後で知ったことだが、あの団地では昔、ある住人が不可解な死を遂げたことがあったらしい。詳しい話は誰も語りたがらず、ただ「4階には近づくな」とだけ囁かれていたそうだ。私が体験したのは、その亡魂の声だったのだろうか。それとも、疲れ果てた私の心が作り出した幻だったのか。今でも分からない。ただ、あの低く響く「出てけ」という声だけは、耳にこびりついて離れない。

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