朽ちた社に響く呻き声

心霊ホラー

埼玉の山奥にひっそりと佇む集落があった。そこは人家もまばらで、鬱蒼とした木々に覆われ、昼なお暗い場所だった。集落の外れに、古びた小さな社がある。苔むした石段を登ると、風化した木造の社殿が現れるが、長い間人の手が入っていないことは一目瞭然だった。屋根には穴が開き、柱は傾き、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。

ある夏の夜、俺は友人と共にその集落を訪れた。目的は単純な好奇心だ。地元で囁かれていた「社の怪談」を確かめたかった。話によれば、夜になると社から奇妙な音が響き、近づいた者は決まって不思議な体験をするという。笑いものだと高を括っていた俺たちは、懐中電灯とカメラを手に、深夜の山道を進んだ。

集落に着いたのは午前零時を少し回った頃。空には雲が厚く垂れ込め、月明かりすら届かない。辺りは静寂に包まれ、虫の声すら聞こえないのが不気味だった。友人が「何か変だな」と呟いたが、俺は気にも留めず社の石段へと足を踏み入れた。石は湿り気を帯び、滑りやすかった。懐中電灯の光を頼りに進むと、社の前に辿り着いた。

社殿は想像以上に荒れ果てていた。扉は半分朽ちており、隙間から風が抜けるたびに軋む音が響く。俺はカメラを構え、友人に「何か映ったら面白いな」と軽口を叩いた。だが、その時だった。社の中から、低くくぐもった呻き声が聞こえてきたのだ。「うぅ……うぅ……」と、まるで苦しむような声。友人が俺の腕を掴み、「聞こえたか?」と震える声で尋ねた。俺は頷きつつも、冷静を装って「風の音だろ」と言い聞かせた。

しかし、次の瞬間、呻き声は一層大きくなり、複数の声が重なり合っているように感じられた。懐中電灯を社の中に向けると、暗闇に蠢く影が見えた気がした。慌てて光を動かしたが、何も映らない。ただ、声だけが響き続けていた。友人は「帰ろう」と怯えた様子で俺を引きずり、石段を下り始めた。だが、下りる途中で異変に気づいた。石段が、登った時よりも長く感じるのだ。懐中電灯で照らしても、先が見えない。

息を切らしながら下り続けていると、背後から足音が聞こえてきた。振り返ると、誰もいない。ただ、暗闇が広がるだけだ。友人が「早くしろ!」と叫び、俺たちは必死に走った。どれだけ走っても石段は終わりを迎えず、足音はどんどん近づいてくる。冷や汗が流れ、心臓が喉元までせり上がる恐怖に襲われた。そして、ふと気づいた。友人の姿が見えないのだ。

「おい、どこだ!?」と叫んだが、返事はない。代わりに、社の方向から再び呻き声が聞こえてきた。今度ははっきりと、「助けてくれ……」という言葉が混じっていた。俺は凍りつき、動けなくなった。懐中電灯を落とし、光が石段を転がり落ちる。その光が一瞬、社の入り口を照らした時、そこに人影が立っているのが見えた。ぼろぼろの着物を纏い、顔が異様に長い。目がこちらをじっと見つめているようだった。

恐怖で頭が真っ白になり、俺はただひたすら走った。どれだけ時間が経ったのか、石段が終わり、集落の入口に戻った時には、夜が明け始めていた。友人は見つからなかった。警察に届け出たが、「そんな場所に社は存在しない」と言われ、捜索すらしてもらえなかった。あの日から、俺は夜になるとあの呻き声が耳に蘇る。友人の声だったのか、それとも別の何かだったのか。今でもわからない。

それから数年が経ち、俺はあの集落に二度と近づいていない。だが、最近になって奇妙な夢を見るようになった。朽ちた社の前で、友人が俺に向かって手を伸ばしている夢だ。その手は異様に冷たく、握られた瞬間、目が覚める。毎晩のようにその夢を見て、俺は眠ることが怖くなった。そして、ある夜、夢の中で友人が呟いた言葉が耳に残っている。「お前が連れてきたんだろ」と。

今でも思う。あの夜、俺たちは何かに取り憑かれたのではないか。社に近づいたことで、取り返しのつかないものを呼び覚ましてしまったのではないか。そして、どこかでまだ、友人が俺を待っているのではないか。そんな恐怖が、俺の心を蝕み続けている。

タイトルとURLをコピーしました