福島県の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに暮らす私は、幼い頃から奇妙な話を聞いて育った。祖母が語るには、この土地には昔から説明のつかない出来事が多く、特に夜になると山から何か得体の知れないものが下りてくると言われていた。私は半信半疑だったが、ある夏の夜、その話を思い出すような出来事に遭遇してしまった。
その日は蒸し暑く、窓を開け放して寝ていた。夜中、ふと目が覚めると、遠くから微かな音が聞こえてきた。最初は風に揺れる木々の音かと思ったが、次第にそれが規則的な足音であることに気付いた。トン、トン、トン……。誰かが歩いているような、しかし人間の足音にしてはどこか不自然で、重く、湿ったような響きだった。
私は布団の中で身を固くし、耳を澄ませた。音は少しずつ近づいてくる。集落の外れにある古い石段を登るような音が聞こえ、やがて家の近くまで来た。窓の外を見ようか迷ったが、恐怖で体が動かない。すると、足音が家のすぐそばで止まった。息を殺していると、今度は別の音が聞こえてきた。ガリガリと爪で何かを引っかくような音だ。家の木製の壁を、ゆっくりと、執拗に引っかいている。
心臓が喉まで飛び出しそうだった。音は止まることなく続き、やがて窓のすぐ下まで移動してきた。そこには薄いカーテンしかなく、もし何かが見上げれば、私の姿が丸見えだ。私は必死に目を閉じ、布団をかぶって震えた。どれくらい時間が経っただろう。突然、足音が再び動き出した。だが、今度は遠ざかるのではなく、家の周りをぐるぐると回り始めた。トン、トン、トン……。一定のリズムで、まるで私を閉じ込めるように。
その夜は朝まで眠れなかった。足音はやがて消えたが、引っかく音が耳に残り続け、目を閉じるたびに何かがそこにいる気がした。翌朝、恐る恐る外に出てみると、家の周囲の壁には無数の細長い傷跡が残されていた。まるで鋭い爪で削られたような跡。近くに住む古老にその話をすると、彼は顔を青ざめ、「あれだな」とだけ呟いた。あれとは何か、詳しくは教えてくれなかったが、その目には深い恐怖が宿っていた。
それから数日後の夜、またあの足音が聞こえてきた。今度は前よりも近く、はっきりと。そして、家の戸を叩く音が加わった。ドン、ドン、ドン。力強く、まるで中に入ろうとするかのように。私は震えながら祖母が教えてくれた古いおまじないを唱えた。すると、不思議なことに音がピタリと止んだ。だが、安心する間もなく、今度は屋根の上から何かが這う音が聞こえてきた。ゴソゴソと重いものが動く音。屋根がきしみ、今にも崩れそうなほどだった。
翌朝、屋根を見上げると、そこには大きな凹みがあった。まるで何か重いものが一晩中そこにいたかのように。私はこの集落を出ようかと考えるようになったが、古老は「逃げても無駄だ」と言う。あれは、この土地に縛られたものらしい。一度目をつけられると、どこへ行っても追いかけてくるのだと。
それからというもの、毎晩のように足音が聞こえるようになった。時には家の周りを回り、時には屋根を這い、時には窓の外でじっと私を見つめているような気配がする。ある夜、勇気を出してカーテンを少しだけ開けてみた。そこには闇しかなかったが、その闇の中に、赤く光る二つの目が浮かんでいた。人間のものではない、異様な形をした目。私の視線に気付いたのか、それはゆっくりと首を傾げ、口元が裂けるように広がった。笑っているように見えた。
私は叫び声を上げてその場に崩れ落ちた。それ以降、外を見ることはやめたが、気配は消えない。足音は夜ごとに近くなり、時には家の床下から聞こえてくることもある。ある時、床板を叩く音があまりに激しくなり、見に行くと、床下から何か黒い手のようなものが這い出そうとしていた。慌てて重い石を置いて押さえつけたが、その夜は一睡もできなかった。
この集落に住む人々は、誰もが何かを感じているようだ。しかし、誰も口に出さない。古老は「あれは昔からいる。おとなしくしていれば害はない」と言うが、私はそうは思えない。毎夜、私を追い詰めるその存在は、明らかに私を狙っている。なぜ私なのか、それはわからない。ただ、祖母が死ぬ前に言った言葉が頭を離れない。「この土地の闇は、人の心に巣食う。お前が恐れれば恐れるほど、それは強くなる」と。
今夜もまた、足音が近づいてくる。トン、トン、トン。窓の外で何かが爪を立て、屋根がきしむ。私は布団の中で目を閉じ、息を殺すしかない。だが、どこかでわかっている。この恐怖から逃れることはできない。なぜなら、あの赤い目は、私の心の中まで見透かしているからだ。