それは、今から数年前の出来事だった。
石川県の山間部にひっそりと佇む小さな集落に、私は仕事で訪れていた。そこは携帯の電波も届かず、周囲を深い森に囲まれた場所で、夜になると闇が全てを飲み込むような静寂が広がる。出張の最終日、私は取引先の男性から、集落の外れにある古い山道を通って帰る近道を教えられた。「ただし、夜は通らない方がいい」と意味深な忠告付きだったが、急いでいた私はその言葉を軽く聞き流し、日が暮れた後にその道を選んだ。
山道は舗装されておらず、細い砂利道がどこまでも続く。懐中電灯を手に持つ私の足音だけが、静まり返った森に響き渡る。風が木々を揺らし、時折枝が擦れる音が不気味に耳に届いた。それでも、私は「こんな田舎に何があるというんだ」と自分を励ましながら歩き続けた。
しばらく進むと、遠くから別の足音が聞こえてきた。カツン、カツン、と規則正しく、誰かがこちらに近づいてくるような音だ。私は立ち止まり、懐中電灯をその方向に掲げた。しかし、光の先には何も見えない。ただ、足音だけが徐々に大きくなり、私の心臓は嫌な予感で締め付けられた。
「誰かいるんですか?」
声をかけた瞬間、足音がピタリと止まった。森の中が再び静寂に包まれる。私は自分の声が震えていることに気づき、急いでその場を離れようとした。だが、次の瞬間、背後から再び足音が聞こえ始めた。今度は明らかに速く、まるで私を追いかけるように近づいてくる。私は慌てて駆け出したが、足元の石に躓き、転倒してしまった。懐中電灯が手から離れ、地面に転がる。その光が一瞬、何かを照らし出した。
そこには、ぼろぼろの着物をまとった女が立っていた。長い髪が顔を覆い、その隙間から覗く目は虚ろで白濁している。彼女の足元を見ると、足が地面に触れていない。浮いているのだ。私は息を呑み、這うようにして後ずさった。女はゆっくりとこちらに近づき、低い声で何かを呟き始めた。言葉は聞き取れないが、その声は怨念に満ちたような響きで、私の全身に鳥肌が立った。
「助けてくれ……」
その言葉だけが、はっきりと耳に届いた。私は必死に立ち上がり、懐中電灯を拾うのも忘れて走り出した。足音が背後で追いかけてくる。振り返る勇気はなかったが、冷たい風と共に、首筋に何かが触れる感覚があった。長い髪が私の肌をかすめたような、ぞっとする感触だ。
どれだけ走ったかわからない。やっと山道を抜け、集落の明かりが見えた時、足音はぴたりと止んだ。私は息を切らし、汗と涙でぐしゃぐしゃになりながら振り返った。そこには誰もいない。ただ、遠くの闇の中から、かすかに笑い声のようなものが聞こえた気がした。
その後、集落の人々にこの話をすると、皆が顔を曇らせた。年配の女性が口を開き、こう教えてくれた。
「あの山道では、数年前に女の人が亡くなったんだよ。夜道で車に轢かれてね。それ以来、そこで変なものを見たって人が後を絶たない。特に暗い夜は、彼女が彷徨ってるって言われてる。あんた、運が良かったね。追いかけられただけですんで」
私はその言葉に震え上がり、二度とその道を通るまいと誓った。しかし、それからしばらくの間、夜になるとあの足音が耳に蘇り、眠れない日々が続いた。ある晩、夢の中であの女が私の枕元に立ち、「一緒に来て」と手を伸ばしてきた。私は叫び声を上げて目を覚ましたが、部屋の中には誰もいなかった。ただ、カーテンが微かに揺れ、外から聞こえる風の音が、まるであの笑い声のように感じられた。
今でも思う。あの夜、私を追いかけてきたものは何だったのか。彼女が私に何を求めたのかはわからない。ただ一つ確かなのは、あの山道に足を踏み入れた瞬間から、私の心に消えない恐怖が刻み込まれたということだ。