異界の霧に消えた村人の影

ホラー

山形県の山間部にひっそりと佇む小さな村。そこは深い森に囲まれ、朝夕には濃い霧が辺りを覆う場所だった。今から10年ほど前の秋のことだ。村では奇妙な出来事が続いていた。普段は静かな集落に、不気味な音が響き始めていたのだ。夜になると、どこからともなく聞こえてくる低いうめき声や、木々が擦れ合うような異様な音。それが何日も続いたある晩、村の若者たちが集まり、「あの森の奥に何かある」と囁き合った。

若者の中でも特に好奇心旺盛だった男がいた。彼は仲間たちを誘い、懐中電灯を手に森の奥へと足を踏み入れた。村の古老たちは「その森には近づくな」と口を揃えて警告していたが、彼らはそれを笑いものにしていた。霧が立ち込める中、男たちは森の奥へと進んでいった。木々の間を縫うように歩きながら、時折聞こえる不気味な音に耳を澄ませた。すると、突然、一人が立ち止まった。「お前ら、見てみろよ」と震える声で指さした先には、古びた鳥居が霧の中に浮かんでいた。

鳥居の先には細い道が続いており、その奥には何かが見えた。ぼんやりとした光と、人の影のようなものだ。男たちは恐る恐る近づいたが、その瞬間、背後から冷たい風が吹き抜け、懐中電灯が一斉に消えた。暗闇の中、彼らは慌てて逃げようとしたが、足元が妙に重く感じられた。まるで何かに掴まれているかのように、身体が思うように動かない。「おい、誰かいるのか!」と叫んだ声が森に響き渡ったが、返ってきたのは自分たちの声の反響だけだった。

その夜、村に戻ってきたのは男たちの中でただ一人、最初に森へ行こうと提案した男だけだった。彼は放心状態で、口から泡を吹き、目を見開いたまま震えていた。村人たちが彼を囲み、何があったのか尋ねたが、彼はただ一言、「あいつらが…あそこに…」と呟くだけだった。それ以降、彼は口を閉ざし、二度と森のことを語らなかった。だが、村人たちは気づいていた。彼の背中に、まるで何かに引っかかれたような赤い痕が無数に残っていることを。

翌朝、村の男たちが森へ向かい、行方不明になった若者たちを探しに行った。鳥居の近くまで来た時、彼らは異様な光景を目にした。地面に散らばる懐中電灯や靴、そして血痕のような赤い染み。しかし、若者たちの姿はどこにもなかった。霧がさらに濃くなり、視界が遮られる中、男たちは急いで村に戻った。そして、その日から村では新たな噂が広がり始めた。「森の奥にはもう一つの世界があって、そこに引きずり込まれた者は二度と戻れない」と。

それから数日後、村の外れに住む老女が奇妙なことを言い出した。彼女は毎朝、家の裏にある小さな畑に出るのだが、ある朝、畑の端に誰かが立っているのを見たという。霧の中でぼんやりと浮かぶその姿は、行方不明になった若者の一人に似ていた。彼女が近づこうとすると、その影はスッと消え、代わりに低い笑い声が響いた。老女は震えながら家に戻り、その話を村人たちに伝えた。すると、他の者たちも似たような体験を語り始めた。夜道で誰かの足音が聞こえたが振り返ると誰もいない。家の窓の外に、じっとこちらを見つめる影が立っていたというのだ。

村は徐々に恐怖に包まれていった。ある夜、村の神社で祈りを捧げていた神主が異変に気づいた。いつもは静かな境内が、この夜は妙にざわついている。風もないのに木々が揺れ、どこからか鈴のような音が聞こえてくる。神主が目を凝らすと、神社の裏手に続く細い道の先に、複数の人影が見えた。それはまるで、行方不明になった若者たちが並んで立っているかのようだった。彼らがこちらに近づいてくるにつれ、神主の身体は凍りついた。彼らの顔は見えないほどに歪み、口元だけが異様に裂けていたのだ。

神主は叫び声を上げ、神社に駆け込んだが、その後も影は消えなかった。それどころか、村全体が異様な雰囲気に包まれていった。昼間でも霧が晴れず、どこからか聞こえる声や足音が村人たちを悩ませた。そして、ある朝、村の入り口に立つ一本の杉の木の下に、奇妙なものが置かれているのが見つかった。それは、行方不明になった若者たちが持っていたはずの懐中電灯だった。だが、その懐中電灯は錆びつき、まるで何年も放置されていたかのようにボロボロになっていた。

村人たちは恐怖のあまり、ついに村を出ることを決めた。荷物をまとめ、近隣の町へと避難する者たちが続出した。しかし、避難した者たちの中にも異変が起きた。彼らは新しい土地に移った後も、夜な夜な悪夢にうなされ、耳元で囁く声に悩まされた。中には、家の外で影を見たと言って発狂する者まで現れた。村を出たはずなのに、まるで何かが彼らを追いかけてきたかのようだった。

今でも、その村は地図から消え、深い霧に覆われたまま放置されているという。時折、通りかかった旅人が森の奥から聞こえる不気味な音に足を止め、鳥居の先を覗き込むことがある。だが、そこに踏み入れた者は決して戻ってこない。村人たちが残した記録によれば、あの森の奥には異界への扉があり、霧がその境界を隠しているのだという。そして、行方不明になった若者たちは今もその向こう側で彷徨い、村を見下ろしているのかもしれない。

誰かがその話をすると、必ずこう付け加える。「あの霧の中には、何か得体の知れないものが潜んでいる。決して近づいてはいけない」と。だが、好奇心に駆られた者たちは今も後を絶たず、森の奥へと消えていく。そして、彼らの足跡は霧に飲まれ、二度と見つかることはないのだ。

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