潮風が頬を撫でるたびに、あの夜の記憶が蘇る。数十年前、俺はまだ若く、島の漁師として生計を立てていた。南国の太陽が照りつける昼間とは裏腹に、夜の海はまるで別世界だった。漆黒の水面に月明かりが映り、波の音だけが響き渡る。そんなある晩、俺は仲間と共に小さな舟で沖へ出た。
その日は妙に風が強く、波がざわめいていた。仲間の一人が「今夜は何かおかしい」と呟いたが、俺たちは笑いものにした。漁師なら嵐の一つや二つ、怖がっていては務まらない。網を下ろし、魚を待ちながら酒を回し飲みした。だが、その時だった。遠くの水平線に、ぼんやりとした光が見えたんだ。
「あれは何だ?」俺が指差すと、仲間も目を凝らした。光は徐々に近づき、やがてそれが舟の形をしていると分かった。だが、近づくにつれ、違和感が募った。舟は古びていて、まるで何十年も海を彷徨ったかのようにボロボロだった。船首に立つ影がこちらを見ている。顔は見えない。ただ、じっとこちらを凝視している気配がした。
「誰か乗ってるのか?」仲間の一人が叫んだが、返事はない。風が一層強くなり、波が舟を揺らした。すると、その影が動き出した。ゆっくりと、まるで水の上を滑るように近づいてくる。俺たちの舟との距離が縮まるにつれ、恐怖が背筋を這い上がった。影は女だった。長い髪が風に揺れ、白い着物のようなものを纏っていた。だが、その顔が…顔がなかったんだ。
「逃げろ!」誰かが叫び、俺たちは慌てて櫂を手に取った。だが、どれだけ漕いでも舟は進まない。まるで海底から何かに引っ張られているようだった。女の影はすぐそこまで迫り、潮風と共に低い呻き声が聞こえてきた。「かえして…かえして…」その声は耳にこびりつき、頭の中で反響した。
仲間の一人が気を失い、俺の腕は震えが止まらなかった。女の影が舟の縁に手をかけた瞬間、冷たい何かが俺の足首を掴んだ。見下ろすと、海面から無数の手が伸びていた。骨ばった指が俺の足を締め付け、引きずり込もうとする。俺は必死に抵抗したが、力が入らない。視界が暗くなり、意識が遠のいた。
次に目覚めた時、俺は浜辺に打ち上げられていた。朝日が昇り、波が穏やかに寄せていた。仲間たちは近くで倒れていたが、全員が生きていた。舟は見当たらず、網も道具も全て消えていた。俺たちは言葉を失い、ただ茫然と立ち尽くした。あの女が何だったのか、何を「返せ」と言っていたのか、今でも分からない。
それから数日後、島の古老にその話をすると、彼は顔を青ざめてこう言った。「あれは海に呑まれた者の亡魂だよ。昔、島の近くで船が沈み、多くの命が失われた。その怨念がまだ海を彷徨ってるんだ。」俺は背筋が凍りついた。あの夜、俺たちは死の淵に立っていたのかもしれない。
以来、俺は夜の海に出るのをやめた。だが、時折、潮風が妙に冷たく感じる夜がある。そんな時、あの呻き声が遠くから聞こえてくる気がする。「かえして…かえして…」その声は今も俺の耳に残り、眠れぬ夜を過ごさせる。あの亡魂はまだ俺たちを見ているのだろうか。それとも、俺が海に何かを忘れてきたのだろうか。
今でも島の漁師たちは、夜の海で妙な光を見たと言えば、すぐに舟を戻す。あの体験を語るたび、誰かが「作り話だ」と笑うが、俺の震える手と怯えた目は嘘をつけない。あの亡魂は確かにそこにいた。そして、もしかすると今も海のどこかで、俺たちを待ち続けているのかもしれない。