それは、ある蒸し暑い夏の夜のことだった。
俺は大学時代の友人と久しぶりに会うため、栃木県の山間部にある彼の実家へと車を走らせていた。時計はすでに23時を回り、街灯もない田舎道は闇に沈んでいた。カーナビが示すルートは、舗装された県道から外れ、細い山道へと俺を導いた。両側には鬱蒼とした杉林が広がり、時折風が木々を揺らす音だけが聞こえる。助手席には誰もおらず、ラジオも雑音ばかりで役に立たない。仕方なく俺は窓を開け、湿った夜気を吸い込んだ。
山道を登り始めて20分ほど経った頃、異変に気づいた。後ろから何か音がする。最初は風か、あるいは動物が草むらを動く音かと思った。でも、違う。規則的で、確実に近づいてくる。それは――足音だった。
「誰かいるのか?」
俺はバックミラーを見たが、闇に溶け込むような黒い森しか映らない。車は時速40キロほどで走っている。歩く速度じゃない。なのに、足音はどんどん大きくなり、まるで車のすぐ後ろを追ってくるようだった。タッ、タッ、タッ……。一定のリズムで、乾いた土を踏むような音。冷や汗が背中を伝う。アクセルを踏み込んだが、道が狭くカーブが多いせいでスピードは出せない。
「まさか、こんな時間に人が歩いてるわけないよな」
独り言で自分を落ち着かせようとしたが、声は震えていた。その時、足音が一瞬止まった。ホッとしたのも束の間、今度は車の左側、窓のすぐ外から聞こえてきた。タッ、タッ、タッ。俺は反射的に窓の方を見たが、そこには何もいない。ただ、暗闇が広がっているだけだ。でも、音は確実に近づいてくる。まるで何かが見えない足で俺の車と並走しているみたいに。
心臓がバクバクして、喉がカラカラになった。友人に電話をかけてみようとスマホを手に取ったが、圏外の表示が点滅している。頼れるものは何もない。俺はただ、ひたすら前を向いて運転を続けた。すると、前方のカーブを曲がった瞬間、ヘッドライトに何かが映った。一瞬だった。白い服を着た女が、道の真ん中に立っていた。長い髪が顔を覆い、表情は見えない。ブレーキを踏む間もなく、車はそのまま突っ込んだ――はずだった。でも、何も起こらなかった。女は消えていた。衝撃も音もない。ただ、静寂が車内を包んだ。
「幻覚か?」
そう思うしかなかった。疲れと暗闇が俺の頭を狂わせたんだ。でも、安心したのも一瞬だった。後ろの足音がまた聞こえ始めた。今度はもっと近く、もっと速く。タッタッタッタッ。まるで走っているような勢いだ。俺はパニックになりながらアクセルを全開にした。タイヤが軋み、車体が揺れる。カーブを曲がるたびに遠心力で体が傾くが、そんなことはどうでもいい。ただ逃げたかった。
どれだけ走ったかわからない。息が上がり、汗でシャツがびしょ濡れになっていた時、ようやく山道が終わり、開けた場所に出た。そこは小さな集落だった。人家の明かりが見え、遠くにコンビニの看板が光っている。足音は、いつの間にか消えていた。俺は車を路肩に停め、震える手でタバコに火をつけた。時計を見ると、日付が変わって0時半。友人の家まではあと10分ほどのはずだ。
少し落ち着いてから再び車を走らせ、友人の実家に着いた。インターホンを鳴らすと、眠そうな顔の友人が出てきた。俺は一気に今までのことを話した。足音、女、恐怖。友人は黙って聞いていたが、最後にポツリと言った。
「あの道か……。あそこ、昔から変な噂があるんだよ」
友人の話によると、その山道は数十年前に大きな事故があった場所らしい。バスが崖から転落し、乗客全員が死んだ。その中には白い服を着た若い女もいたという。それ以来、夜になると妙な音が聞こえたり、道に立つ女の影を見たという人が後を絶たないらしい。友人は笑いものだよ、と軽く言ったが、俺には笑えなかった。あの足音が耳から離れない。
その夜、友人の家に泊まったが、ほとんど眠れなかった。目を閉じるたびにあの白い服の女が頭に浮かび、遠くから足音が聞こえてくる気がした。翌朝、明るい日差しの中で山道を再び通ったが、何事もなかった。ただの静かな田舎道だった。でも、俺はその道を二度と通る気にはなれない。
それから数日後、俺はあの夜のことをネットで調べてみた。似たような体験談がいくつか出てきた。特に、ある男の書き込みが目に留まった。彼も同じ道で足音を聞き、白い服の女を見たらしい。ただ、彼の話には続きがあった。女が消えた後、車が突然故障し、立ち往生した彼は夜明けまでその場にいた。そして、朝日が昇る頃、遠くの木々の間から何かが自分を見ている気がしたという。その「何か」は、女の形をしていたが、顔がなかった。いや、顔があったのかもしれないが、闇に溶けて見えなかっただけかもしれない。
俺は今でも思う。あの夜、もし車を停めていたら。もし窓を開けたまま女の方を見ていたら。俺はどうなっていたんだろう。あの足音は、俺をどこに連れて行こうとしていたのか。答えはわからない。でも、ひとつだけ確かなことがある。あの山道には、二度と近づかない。
今でも、静かな夜に耳を澄ますと、遠くからタッ、タッ、タッ、という音が聞こえる気がする。それは風の音かもしれないし、俺の気のせいかもしれない。でも、心のどこかで、あの足音がまた近づいてくるんじゃないかと怯えている。