凍てつく森の囁き

サスペンスホラー

北の大地に広がる深い森。その奥深くに、ひっそりと佇む小さな集落があった。そこに住む人々は、昔から森の掟を守り、決して夜に外へ出ないことを鉄則としていた。だが、ある冬の夜、若者たちがその掟を破ったことから、恐ろしい出来事が連鎖し始めた。

その夜、集落の端に住む男は、窓の外から聞こえる奇妙な音に目を覚ました。風が木々を揺らす音とは異なる、低く唸るような響き。まるで何かが地面を這うような、不気味な擦過音だった。彼は布団の中で身を固くし、目を閉じたまま耳を澄ませた。すると、音は次第に近づき、家のすぐ外で止まった。息を殺して様子を窺う彼の耳に、かすかな囁き声が届いた。言葉にならない、呻きのような声。だが、それは確かに何かを訴えているようだった。

翌朝、男が恐る恐る外に出ると、家の周囲には不思議な足跡が残されていた。人間のものとも獣のものともつかぬ、異様に細長い形。雪の上にくっきりと刻まれたその跡は、森の奥へと続いていた。集落の者たちに相談すると、年寄りたちは顔を青ざめ、「あれが現れた」と口々に呟いた。あれとは何か。誰も詳しくは語らなかったが、ただ一つ確かなことは、森の掟を破った若者たちが前夜に森へ入り、そのまま戻っていないということだった。

数日後、集落に異変が起こり始めた。夜になると、どこからともなく聞こえる囁き声が、家々の周りを徘徊するようになった。声は次第に数を増し、時には複数の声が重なり合って不協和音を奏でた。眠れぬ夜を過ごす者たちが増え、皆が疲弊していく中、一人の女が奇妙な行動を取り始めた。彼女は昼間からぼんやりと森の方を見つめ、時折独り言を呟くようになった。ある夜、彼女は突然家を飛び出し、雪の中を裸足で森へと走り出した。家族が追いかけたが、彼女の姿は瞬く間に闇に呑まれ、二度と見つかることはなかった。

その後も、集落では不可解な出来事が続いた。ある家では、夜中に窓ガラスに無数の手形が浮かび上がり、朝になると消えていた。また別の家では、子供が「森から誰かが呼んでる」と怯え、夜通し泣き続けた。囁き声はますます激しくなり、時には家の中まで響き渡るようになった。恐怖に耐えかねた者たちは、集落を捨てて逃げようとしたが、不思議なことに、どの道を通っても森の入り口に戻ってしまう。まるで森そのものが彼らを閉じ込め、逃がすまいとしているかのようだった。

ある吹雪の夜、男は決意した。このままでは全員が正気を失うか、消えてしまう。真相を確かめるため、彼はランプとナイフを手に森へと踏み込んだ。雪が容赦なく降り積もり、視界はほとんど利かなかったが、足跡を頼りに進むうちに、彼は森の奥に古びた小屋を見つけた。小屋の中は異様な静けさに包まれ、壁には爪で引っ掻いたような無数の跡が残されていた。そして、床の中央には、血で描かれたような奇妙な模様があった。

その時、小屋の外から聞き覚えのある囁き声が響いた。振り返ると、窓の外に無数の影が揺れている。影は人の形をしていたが、異様に長く伸びた手足と、顔の判別できない暗闇のような頭部を持っていた。男は恐怖で動けなくなったが、影たちは小屋に近づくでもなく、ただじっと彼を見つめていた。すると、囁き声が一斉に言葉を紡ぎ始めた。「お前が来た。お前が来た。お前が来た。」繰り返されるその言葉に、男の意識は徐々に薄れていった。

翌朝、集落の者たちが森へ男を探しに行ったが、彼の姿はどこにもなかった。ただ、小屋の床に新たな血の模様が加わっているだけだった。それ以降、集落は完全に静まり返り、囁き声も影も消えた。だが、生き残った者たちは決して安心することはできなかった。なぜなら、森の奥から時折聞こえるかすかな音が、再び何かを呼び覚ます前触れに思えてならなかったからだ。

長い年月が経ち、集落は廃墟と化した。だが、旅人たちの間ではこんな噂が囁かれている。吹雪の夜にその森を通ると、どこからともなく声が聞こえ、足跡が雪の上に現れるという。そして、その足跡を辿った者は二度と戻らない。森は今もなお、静かに獲物を待ち続けているのかもしれない。

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