霧深い森に響く泣き声

実話風

宮崎県の山奥に広がる深い森。そこは古くから人が近づかない場所として知られていた。霧が立ち込め、木々がうっそうと茂るその森は、昼間でも薄暗く、まるで時間が止まったかのような静寂に包まれている。地元の古老たちは「あの森には何かいる」と囁き合い、子供たちには決して近づかないよう言い聞かせてきた。だが、ある夏の日、私と友人たちは好奇心に負け、その禁じられた森へと足を踏み入れてしまった。

私たちは三人だった。リーダー格のAは冒険心旺盛で、いつも何か面白いことを探していた。Bは慎重な性格で、最初は反対していたが、結局ついてきた。そして私。どこか不安を感じながらも、仲間外れになるのが嫌で同行した。森の入り口に立つと、冷たい風が頬を撫で、背筋に寒気が走った。それでもAが「怖気づくなよ」と笑い、私たちは木々の間に消えていった。

最初はただの散歩のようだった。鳥のさえずりが聞こえ、木漏れ日が地面にまだら模様を描いていた。しかし、進むにつれて空気が重くなり、霧が濃くなった。視界がぼやけ、足元の落ち葉が湿って滑りやすくなっていた。Bが「もう戻ろう」と言いかけたその時、遠くから奇妙な音が聞こえてきた。低い、うめくような声。動物とも人間ともつかない、不気味な響きだった。

「何だあれ?」Aが目を輝かせて言った。私は恐怖で足がすくんだが、彼は音のする方へ歩き出した。私とBは仕方なく後を追った。音はだんだん近づき、やがてはっきりと聞こえるようになった。それは泣き声だった。子供のような、女のような、細く震える声。霧の中でその声は反響し、まるで森全体が泣いているかのようだった。

私たちは立ち止まり、息を潜めて周囲を見回した。すると、木々の間からぼんやりとした影が現れた。小柄で、白い布のようなものをまとった人影。距離が遠くて顔は見えなかったが、その姿は不自然にゆらゆらと揺れていた。Aが「誰かいるのか?」と叫んだ瞬間、影がこちらを向いた。顔がない。頭があるはずの場所に、ただ黒い穴のようなものがあるだけだった。

私は悲鳴を上げて後ずさった。Bも顔を真っ青にして震えていた。だがAは逆に一歩前に出て、「お前、何者だ!」と叫んだ。その声に反応するように、影がゆっくりと近づいてきた。足音はない。ただ、泣き声が大きくなり、耳を劈くような高音に変わっていった。私は逃げようとしたが、足が絡まりその場に倒れ込んだ。

影がすぐ近くまで来た時、霧が一瞬晴れた。そこに立っていたのは、確かに人間の形をした何かだった。だが、その体は異様に細長く、手足が不自然に伸びていた。顔の黒い穴からは、絶え間なく泣き声が漏れていた。目も鼻も口もない。ただ穴があるだけ。私は恐怖で声も出せず、ただ這うようにして後退した。

Aが突然叫び声を上げた。見ると、彼の手が影に触れた瞬間、みるみるうちに黒く変色し、皮膚が溶けるように崩れ落ちていた。「助けて!」と叫ぶAの声が森に響いたが、私とBは動けなかった。影はAに覆いかぶさるように近づき、彼の体を包み込んだ。次の瞬間、Aの叫び声がぴたりと止み、彼の姿が消えた。跡形もなく、まるで最初からそこにいなかったかのように。

私とBは我に返り、必死で森を駆け出した。泣き声が背後で追いかけてくる。枝が顔を切り、足が泥に沈みながらも、ただひたすら走った。どれだけ走ったかわからない。やっと森の外に出た時、振り返ると霧の中にまだあの影が立っていた。泣き声は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

それから私たちは二度とその森に近づかなかった。Aのことは誰にも言えず、行方不明として処理された。彼の両親は泣き崩れ、私たちはただ黙って見ているしかなかった。だが、あの泣き声は今でも夢の中で聞こえる。目を閉じると、霧の中にあの顔のない影が立っている。時折、風が冷たく吹く夜には、遠くからあの声が聞こえてくる気がして、眠れなくなる。

地元の古老が「あの森には何かいる」と言っていたのは本当だった。あれは人間ではない。何か別のものだ。私たちが踏み入れたことで、Aは犠牲になった。そして、もしかすると私たちも完全に逃げ切れたわけではないのかもしれない。あの影はまだ、私たちを見ている気がしてならない。

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