異界の囁きが響き合う夜

ホラー

それは、数年前の夏の終わりだった。

私は愛知県の山間部にある小さな集落に引っ越してきたばかりだった。仕事の都合で都会を離れ、自然に囲まれた静かな暮らしを求めてのことだ。集落は古びた家々が点在し、昼間は穏やかな時間が流れていたが、夜になるとどこか不気味な静寂が支配していた。

引っ越して数日後の夜、私は奇妙な音を耳にした。窓の外から聞こえる、低く唸るような声だ。最初は風の音か、遠くの動物の鳴き声かと思ったが、どうにも人間の声に似ている気がしてならなかった。寝室の窓を開け、外を覗いてみたが、月明かりに照らされた木々以外は何も見えない。気味が悪くなり、すぐに窓を閉めた。

翌朝、近所に住むおばあさんにその話をすると、彼女は少し顔を曇らせてこう言った。

「それは、あんたが聞いちゃいけないものかもしれないよ。ここらじゃ昔から、夜に変な声が聞こえるって話があるんだ。気にしない方がいいよ。」

おばあさんの言葉に少し不安を覚えたが、私は都会育ちの合理主義者だ。迷信や怪談なんて信じない、と自分に言い聞かせた。しかし、その夜から奇妙な出来事が続いた。

毎晩、決まった時間になるとあの声が聞こえるようになった。最初は囁くような小さな音だったが、日を追うごとにその声は大きくなり、はっきりと何かを訴えているように感じられた。言葉は聞き取れない。ただ、怨念のような感情が込められていることは確かだった。私は眠れなくなり、昼間も疲れが取れず、頭の中がぼんやりとし始めた。

ある夜、とうとう我慢できなくなった私は、声の正体を確かめようと決意した。懐中電灯と携帯電話を手に、声が聞こえる方向へと歩き出した。集落の外れにある森の奥へ向かう小道を進むと、空気が急に重くなった。木々の間を抜ける風が冷たく、背筋が凍るような感覚がした。

しばらく歩くと、森の奥に古い祠を見つけた。苔むした石造りの祠で、周囲には異様な静けさが漂っている。すると、その祠の裏からあの声が聞こえてきた。低く、唸るような声が、まるで私を呼んでいるかのように響き渡る。私は恐る恐る祠の裏に回り込んだ。

そこには、何もなかった。いや、何かがあったはずなのに、私の目には映らない。声は確かにそこから発せられているのに、姿が見えないのだ。恐怖が全身を包み、私はその場から逃げ出した。足がもつれながらも必死に走り、ようやく家に戻った時には息が上がっていた。

それから数日、私は家に閉じこもった。声は毎夜聞こえ続け、私の精神を蝕んでいった。ある晩、疲れ果てて眠りに落ちた私は、奇妙な夢を見た。暗闇の中、祠の前に立つ人影が私を見つめている。顔は見えないが、その視線が私の心臓を締め付ける。すると、人影がゆっくりと近づいてきて、耳元で囁いた。

「お前がここに来たからだ。」

目が覚めた瞬間、全身が冷や汗で濡れていた。時計を見ると、ちょうど声が聞こえ始める時間だった。しかし、その夜は声が聞こえなかった。初めての静かな夜に安堵したのも束の間、私はあることに気づいた。家の窓が、全て内側から鍵がかけられていないのだ。

慌てて鍵をかけ直していると、背後でかすかな足音がした。振り返ると、そこには誰もいない。でも、確かに何かがいる気配がした。部屋の空気が歪み、視界の端に黒い影がちらつく。私は息を殺して立ち尽くした。すると、耳元で再びあの声が響いた。

「お前は逃げられない。」

その瞬間、部屋の電気が一斉に消えた。暗闇の中で、私は何か冷たい手に首を掴まれたような感覚に襲われた。叫び声を上げようとしたが、声が出ない。体が動かず、ただ恐怖に支配されるだけだった。

翌朝、目を覚ますと、私は床に倒れていた。電気は元に戻り、窓の鍵も全てかかっていた。あの夜の出来事が夢だったのか現実だったのか、分からないままだったが、それ以来、私はあの集落に住むことができなくなった。すぐに荷物をまとめ、都会へと戻った。

後日、集落の歴史を調べた知人から驚くべき話を聞いた。数十年前、その森の近くで大きな事故があり、多くの命が失われたという。以来、夜になると亡魂が彷徨い、祠の周辺で声が聞こえるという噂が絶えなかったらしい。そして、祠に近づいた者はみな、不思議な体験をして集落を去ってしまうのだと。

私は今でもあの夜のことを思い出すたび、背筋が寒くなる。あの声は、私を引きずり込もうとした異界の囁きだったのだろうか。それとも、私自身の心が作り出した幻だったのか。答えはわからない。ただ一つ確かなのは、あの集落には二度と近づかないということだ。

今でも、静かな夜になると、遠くからあの低く唸る声が聞こえてくる気がしてならない。

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