薄闇に響く臨死の足音

実話風

それは私がまだ幼い頃、母の実家である山深い集落に帰省していた夏のことだった。

田んぼの緑が風に揺れ、遠くでカエルの合唱が響く静かな夜。母方の祖母は囲炉裏端で火をいじりながら、私に古い話を聞かせてくれた。だがその夜、祖母の口から漏れたのは、ただの昔話ではなかった。

「この辺りじゃな、昔から妙なことが起こるんよ」と祖母は低い声で切り出した。「特にあの山の奥、誰も近づかん場所がある。あそこにはなぁ、何か得体の知れんものがおって、時々人を連れて行くって話じゃ」。

私は膝を抱えて聞き入った。祖母の目は火の光に揺れ、まるで遠くを見ているようだった。彼女が語ったのは、30年ほど前にこの集落で起きた、ある男の話だった。

その男は猟師だった。背が高く、寡黙で、いつも一人で山に入るのが常だった。村人たちは彼を頼りにしていたが、同時にどこか近寄りがたい雰囲気を感じていたらしい。ある秋の夕暮れ、男はいつものように猟銃を肩にかけ、山の奥へと消えた。それが最後に彼を見た瞬間だった。

数日後、村の若者たちが山で彼の猟銃を見つけた。銃は木の根元に立てかけられ、そばには血痕が点々と続いていた。だが男の姿はどこにもなく、足跡すら途中で途切れていた。村人たちは恐れおののきつつも捜索に出たが、何の手がかりも見つからなかった。まるで山そのものに呑み込まれたかのように、男は消えた。

それからしばらくして、奇妙な噂が広がり始めた。夜になると、山の奥から低い唸り声のような音が聞こえるというのだ。猟師の声に似ている、と怯えた声で囁く者もいた。だが誰も確かめに行こうとはしなかった。集落は静かに恐怖に包まれ、夜の外出を控えるようになった。

そんなある日、村に住む一人の少年が不思議な体験をした。彼は猟師が消えた山の近くで遊んでいた時、急に体が重くなり、足が地面に沈むような感覚に襲われたという。辺りを見回すと、薄闇の中、木々の間にぼんやりと人影が立っていた。少年は目を凝らしたが、その人影は不自然に長く、頭部が異様に傾いでいた。恐ろしさで声も出せず、少年はその場に立ち尽くした。

すると、人影がゆっくりと動き出した。足音はなく、ただスーッと近づいてくる。少年の心臓は早鐘のように鳴り、全身が冷や汗で濡れた。人影がすぐ近くまで来た時、少年はようやく我に返り、叫びながら家へと駆け戻った。家に着く頃には気を失いかけていたが、家族にその話をすると、誰もが顔を青くした。

「あれは猟師の亡魂だ」と祖父が呟いた。「死にきれず、山を彷徨っとるんじゃろう。あの山には近づかん方がええ」。

それから少年は高熱にうなされ、数日間うわ言を繰り返した。「足音がする」「近づいてくる」と泣きながら訴えるその姿に、家族はただ祈ることしかできなかった。やがて熱は引いたが、少年はそれ以降、山を見ることすら怖がるようになった。

祖母はその話を終えると、囲炉裏の火をじっと見つめた。「あんたも気をつけなよ。あの山は今でも何かおるかもしれんからな」。私は頷きながらも、どこか信じられない気持ちだった。だがその夜、私は自分の想像を超える恐怖を味わうことになった。

深夜、母の実家の古い家で目を覚ました時、妙な音が耳に届いた。カタ、カタ、と何かが木の床を叩くような音。最初は風の仕業かと思ったが、音は徐々に近づいてくる。私の寝ていた部屋は二階にあり、窓からは山の黒い影が見えた。音がすぐ近くまで来た時、私は布団の中で息を殺した。

すると、窓の外に何かが見えた。暗闇に浮かぶ白い顔。目が異様に大きく、口が裂けたように歪んでいる。それは人間の形をしていたが、人間ではなかった。私の全身が凍りつき、動くことも叫ぶこともできなかった。その顔は私をじっと見つめ、ゆっくりと首をかしげた。

どれほどの時間が経ったのかわからない。突然、音がピタリと止み、顔が消えた。私は震えながら布団を被り、朝を待った。夜が明けた時、祖母にその話をすると、彼女は静かに目を閉じた。「あんたが見たのは、きっとあの猟師の何かだよ。あの山はまだ生きとる」。

それ以来、私は母の実家に近づくことができなくなった。あの夜の記憶は今でも鮮明で、目を閉じるとあの白い顔が浮かんでくる。あの山の奥に何が潜んでいるのか、私には知る術もない。ただ一つ確かなのは、あの集落が抱える闇は、30年経った今でも消えていないということだ。

時折、風が運んでくるような低い唸り声が耳に残り、私は思わず背筋を震わせる。あの猟師はまだ山を彷徨い、私たちを見つめているのかもしれない。そして、次の誰かを連れ去る瞬間を、薄闇の中で静かに待っているのかもしれない。

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