和歌山の山奥にひっそりと佇む小さな集落がある。そこは古い家々が寄り添うように並び、昼なお薄暗い杉林に囲まれている。集落の外れには、苔むした石段を登った先にある古い社がある。屋根は半ば崩れ、木々の間から漏れる僅かな陽光が、朽ちかけた木の柱に影を落としている。地元の者でさえ近づかぬその社は、昔から何か得体の知れないものが棲みついていると噂されていた。
ある夏の夕暮れ、俺は友人と共にその集落を訪れた。目的は単純な好奇心だった。都会の喧騒に疲れ、自然の中で少しばかりの冒険を楽しもうという軽い気持ちだった。友人は写真が趣味で、古びた風景を撮りたいと言っていた。俺は特に反対する理由もなく、ついていくことにした。
集落に着いた時、太陽はすでに山の稜線に沈みかけていた。空は茜色に染まり、遠くでカラスの鳴き声が響く。集落の住人はほとんど見当たらず、時折、家の奥から聞こえるかすかな物音だけが静寂を破っていた。俺たちは少し歩き回った後、あの社の存在を思い出した。友人が「せっかくだから撮っておこうぜ」と言い出し、俺もその場の雰囲気に流されるままに頷いた。
石段を登り始めると、空気が急に重くなった気がした。湿った土の匂いと、どこからか漂ってくる腐臭のようなものが鼻をつく。風はなく、木々の葉さえ動かない。友人はカメラを手に持ったまま、時折シャッターを切っていたが、その表情が次第に硬くなっていくのが分かった。「何か変だな」と呟いた彼の声は、少し震えていた。
社の前にたどり着いた時、俺は異様な感覚に襲われた。まるで誰かに見られているような、背筋を這う冷たい視線を感じたのだ。辺りを見回しても誰もいない。ただ、社の奥、暗闇に沈んだ場所から、何か小さな音が聞こえてくる。カタカタ、という木が軋むような音だ。友人もその音に気づいたらしく、「何だこれ?」と顔をしかめた。
俺たちは恐る恐る社の中を覗き込んだ。そこには古びた祭壇があり、その上に埃をかぶった小さな木箱が置かれていた。箱の表面には奇妙な模様が彫られていて、まるで何かを封じ込めているかのようだった。友人が「開けてみようか」と冗談めかして言った瞬間、カタカタという音が一気に大きくなった。まるで箱そのものが震えているかのように。
「やめとけ」と俺が制止する間もなく、彼は手を伸ばした。指先が箱に触れた瞬間、社全体が揺れた。地面が震えているのか、それとも俺たちの錯覚なのか分からない。ただ、その瞬間、箱の中から低い呻き声のようなものが漏れ出し、俺の耳に直接響いてきた。友人は手を引っ込め、目を丸くして俺を見た。「聞こえたか?」と掠れた声で尋ねてきたが、俺はただ頷くしかできなかった。
その時、社の奥の暗闇から、かすかな人影が浮かび上がった。いや、人影と呼ぶにはあまりにも曖昧で、黒い霧が人の形を模しているような、そんな不気味なものだった。そいつはゆっくりとこちらに近づいてくる。足音はない。ただ、近づくにつれて空気が冷たくなり、胸が締め付けられるような圧迫感が増していった。
「逃げよう」と俺は叫び、友人の腕を引っ張って石段を駆け下りた。背後で何かが追ってくる気配がした。振り返る勇気はなく、ただひたすらに走った。石段を下りきった時、ふと気になって後ろを見ると、社の入り口にその黒い影が立っていた。遠くからでも分かるほど、そいつの目は俺たちをじっと見つめていた。
集落を抜け、車に飛び乗ってその場を離れた時、ようやく息をつくことができた。友人は無言でカメラを握り潰すように持っていて、その手が小刻みに震えていた。帰り道、俺は助手席で何度も後ろを振り返ったが、追ってくるものは見えなかった。ただ、心のどこかで、あの影がまだ俺たちを見ているような気がしてならなかった。
それから数日後、友人が撮った写真を見せてくれた。社の入り口を写した一枚に、ぼやけた黒い人影が映り込んでいた。ピントが合っていないわけではない。明らかにそこに何かがあったのだ。俺はその写真を見た瞬間、体の芯が冷えるのを感じた。そして、耳元でまたあの低い呻き声が聞こえた気がした。
それ以来、俺は和歌山の山奥には近づいていない。友人もあの出来事以降、あのカメラを手にすることはなくなった。あの社に何が潜んでいたのか、箱の中には何が入っていたのか、今でも分からない。ただ一つ確かなのは、あの場所には二度と近づきたくないということだ。
時折、夜中に目を覚ますと、遠くからカタカタという音が聞こえてくることがある。窓の外を見ても何もない。ただ、その音が近づいてくるたびに、あの黒い影がすぐそこまで来ているような恐怖に襲われる。あの日、俺たちは何かを持ち帰ってしまったのかもしれない。そしてそれは、決して離れることなく、俺たちを見続けている。